9:31こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
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31節に似ている言葉は、アナニヤ、サッピラ夫婦が献金額をごまかした事件や、ギリシャ語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人との対立後、それらを適切に対処した教会に対して語られた言葉です。その後ステパノの死やサウロの迫害によって、教会には冬の時代が訪れましたが、迫害者サウロが伝道者サウロに変えられ、迫害がいったん落ち着いて各地の教会に春がやってきました。それを31節で表しています。私たちの教会でも、個人でも、困難があった時、神様と共にそれを適切に対処する時、神様の御業が起こります。私たちは神様の御業を待ち望む者でありたいと思います。
今日はペテロの①アイネヤへの奇蹟(32~35)、②タビタへの奇蹟(36~43)、③イエス様の御跡を行く、についてお話をします。
まず、33節には「八年間も」という言葉が文頭にありますが、原文も同じで、この言葉を強調しています。これは、アイネヤの絶望的な現状を表していると言えるでしょう。神様はなぜ、アイネヤが神様を信じた瞬間に彼を癒されなかったのでしょうか。なぜ彼は、八年間も苦しまなければならなかったのでしょうか。その答えが35節にあります。「立ち返る」とは、神様と人間の本来の関係に立ち返るという意味です。アイネヤの八年間の苦しみは、人々が神様に立ち返るために用いられたのです。私たちも、神様を信じているのに、苦しむ時間を通ることがあります。それは簡単には言えませんが、信仰の試練と言えるのではないでしょうか。また、その苦しみの後に、神様は計画を持っておられるかもしれません。
次に、タビタについて見ていきます。ヨッパは、ルダから約16キロ離れた町です。「多くの」(36)は、英語の聖書ではfullと訳されていますが、彼女は自分の賜物や時間をいっぱいいっぱい良いわざと施しに使っていたようです。タビタへの奇蹟は、信じられないほどすばらしいものです。しかし、この世の終わりに信じる者の復活は、これを超えるものだと思うのです。信じる者は二度と死ぬことがなく、永遠のいのちを得、神様と共に生きることができます。私たちは天の御国へ行って神様に出会った時に、地上で求めていたのはこの方だったと知ると思います。タビタに起こった以上のことが、私たちには起こるのです。
今日は、ペテロの行った二つの奇蹟を見ました。これらは、イエス・キリストの奇蹟ととてもよく似ています(34節とルカ5章24節、40節とマルコ5章41節)。「タリタ、クミ」はアラム語です。ペテロは9:40でタビタを復活させる時に「タビタ、クミ」と言ったでしょう。著者ルカは、「タリタ、クミ」と「タビタ、クミ」の類似点を読者に気づかせるために、36節であえてアラム語の名前(タビタ)を使ったのです。
このように、使徒の働きの著者が二つの奇蹟を通して最も伝えたかったことは、ペテロがイエス様のように思い、イエス様のように行動したということです。イエス様が地上に生まれたのは、私たちを罪から救うためです。さらに、人に生きる模範を示すためではないでしょうか。ペテロは「使徒の働き」において、イエス様のように生き、伝え、愛し、人をゆるしました。私たちもイエス様に倣って、イエス様の御跡を行く生き方をしていきたいと思います。
天の父なる神様、御言葉をありがとうございます。イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかって下さいました。イエス様は私たちのために犠牲を払って、エルサレムに顔を向け、真っ直ぐにエルサレムに向かって行かれました。神様、私たちも人を犠牲をもって愛する、そのような愛をもって人生を歩んで行くことができるようにして下さい。私たちは罪人ですが、信じる者には聖霊が内住しています。どうぞ、聖霊様が私たちの行く道を守って下さいますようにお願いいたします。(2018年12月9日礼拝 武田遣嗣牧師)
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