10:1さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。 10:2彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、 10:3ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。 10:4彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。 10:5さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。 10:6この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」 10:7御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、 10:8全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
「神の摂理」とは簡単に言えば、神様がこの世界すべてに関りを持ち、目的を持って世界を導いておられるということです。今日の箇所では、神様はコルネリオとペテロという人物を導かれました。それは、異邦人の救いという神様の大きな目的に繋がっていきます。今日は、神様が彼らにどのように働かれたのかを見ていきましょう。
カイザリヤ(ローマ皇帝の町)はガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ一帯を統治するためにつくられた町で、コルネリオはローマ皇帝の命によって、カイザリヤで軍隊の指揮を執っていた人です。当時ローマ皇帝は神格化され、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と呼ばれる時代が続いていました。このような時代に、コルネリオは聖書の神様を信じ、多くの施しをし、いつも神様に祈っていました。午後3時ごろと時間が明記されている(3)のは、とても重要なことです。当時のユダヤでは、敬虔なユダヤ人は9時、12時、15時に祈っていたそうです。ですから、コルネリオは御使いが現れた時、ちょうど祈りをささげていたのでしょう。「立ち上る」(4)とは、旧約聖書のいけにえを連想させる言葉です。旧約聖書では、神様にささげものをする時、動物や穀物を燃やし、その煙が神様の前に立ち上り、神様のもとに届いていきました。祈りと施しが神の前に立ち上っているとは、コルネリオの祈りと施しに、動物や穀物をささげるほどの重さがあった、ということを表しています。異邦人コルネリオは、御使いのこの言葉に大いに励まされたと思います。当時、異邦人は救いの部外者だと考えられていたからです。しかし、彼はいつも神様に祈っていました。私たちも何度も祈ってきたでしょう。その祈りも、神様の前に立ち上って覚えられています。続いて、御使いはコルネリオに、ユダヤ人ペテロを自宅に招くよう命じました。
これは考えられないことでした。ユダヤ人には食べてはいけない物がありましたが(レビ11)、異邦人はそれらを普通に食べていたので、ユダヤ人が異邦人の家に行くことはあり得なかったからです。しかし、コルネリオは御使いの命令に全力で応答しました。普通なら断られて当たり前なのに、コルネリオは神様の摂理を信じて、自分ができる最大限のことをし、神様の御業を待ちました。私たちは、彼の信仰者としての姿勢から学ぶことが多いのではないでしょうか。
次に、ペテロに働かれた神様の摂理について、見ていきましょう。ペテロも他の敬虔なユダヤ人と同様、12時に祈る習慣を守って、祈りをささげていました。ペテロもコルネリオも、祈っていた時に神様に幻を見させられました。クリスマスのシーズン、教会は活発に動きます。今月、他教会で人形劇を、昨日は児童館で腹話術の公演をしました。活動している中で、これだけやっていれば十分だろうと感じている自分に気づかされました。たとえ多くの人たちに神様のことを伝えても、神様が働かなければ何の意味があるでしょうか。コルネリオやペテロのように、立ち止まって祈る時間、神様の摂理を待ち望む時間を大切にしなければならないと思いました。そうでなければ、私はできる、これだけのことをしていると、高慢になってしまうでしょう。ペテロは普段、神様のために熱心に働いていました。しかし彼が活動をやめて屋上に上がり、祈った時に、神様の御業が起こったのです。これは私たちも同じだと思います。日常生活の中で立ち止まって神様に祈る時、その祈りが神様の前に立ち上って、主が働かれるのです。謙遜な心で祈る、そのような信仰者でありたいと思います。主よ、御心のままに教会を動かして下さい、私たちを主の僕として用いて下さい、このように祈る教会でありましょう。
さて、ペテロが幻(11~16)を見て思い惑っている時、コルネリオの遣いが丁度、ペテロの家の門口に立っていました(17)。これはまさにベストタイミングでした。もしペテロが幻を見た後でなければ、彼はコルネリオのところに行くのを断ったと思います。神様は御心のタイミングで御業を行われます。私たちはベストタイミングを知りませんが、神様は御業を起こす一番いいタイミングをご存知です。私たちはそれを待って祈り続けられるか、それが問われています。
神様はすでにこの世界、教会、私たち一人一人に目的を持っておられます。神様は力ある方であり、ご自身だけでもその目的を達成することができますが、人を用いてそれを達成しようとされる方です。そして神様は、謙遜に祈りをささげる人を用います。ペテロとコルネリオは、正にこういう人たちでした。教会は神様の摂理の中にあります。私たちが高慢になれば、神様は教会に働かれるでしょうか。私たちは主をいつも見上げて、御心のままに教会を、私を動かして下さいと祈る者でありたいと思います。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい(詩127:1)」。天の父なる神様、私たちは神様が世界、教会、私たち一人一人に働かれることを信じているでしょうか。どうぞ、私たちが神様の前にへりくだって、主の働きをすることができるように導いて下さい。神様、ここにいる一人一人と共にいて下さい。(2018年12月16日礼拝 武田遣嗣牧師)
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