私達の光、イエス・キリスト ヨハネの福音書1章9節

1:9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)

 

9   すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 

ここでいう光とはイエスキリストのことです。世界で最初のクリスマスの夜、暗やみに満ちた世界に光なるイエス様がお生まれになりました。暗闇の中に灯った一つの光、暖かな光です。

 

皆さんは暗闇の中で怖い体験をしたということがあるでしょうか。外套のない道であったり、おばけ屋敷であったり、小さい時、暗やみで一人で寝ていた時であったり、皆さん一度は経験されたことがあると思います。暗闇は私達を不安にします。

 

イエスキリストは私達の中の暗闇を明るく照らす光です。本日は私達の中の「暗闇」、そしてその暗闇を照らすイエスの「光」。暗闇と光について、共に学びたいと思います。

 

まず暗闇についてです。イエスキリストの誕生の物語、世界で最初のクリスマスの物語は、美しいイメージがあります。天使のお告げ、星に導かれた博士達。しかしその物語の節々には、人間の内にある暗やみが描かれています。

 

当時のイスラエルはローマ帝国の皇帝アウグストが世界を支配しておりました。イエス様の生きた国、イスラエルもその支配下にあったのです。アウグストは支配下の国にこのような命令を出しました。「自分の故郷に帰り、住民登録を行いなさい」住民登録とは、その国にどれくらいの人がいるのかを確認するために実施されたものです。全ての人達は自分の故郷に帰らなければならなくなりました。

 

イエス様の親であるマリヤとヨセフも例外ではありません。マリヤは妊婦でしたが、故郷ベツレヘムまでおよそ120キロの旅をしなければなりませんでした。120キロといえば、直線距離で那珂湊から東京までの距離です。妊婦であるマリヤには大変だったでしょう。そいてやっとたどり着いたベツレヘムで新たな問題が起こります。宿屋が空いていないのです。そして誰も旅に疲れた妊婦に手を差し伸べる人はいなかったのです。しかたなくマリヤとヨセフは馬小屋に泊まりました。マリヤはそこでイエス様を出産することになったのです。

 

イエス様誕生の物語に描かれている闇とは、最もケアされなければならない妊婦や弱者が顧みられない残酷さ、そして上に立つ者や、また宿屋を経営する者達の自己中心です。イエス様が臭く、汚い馬小屋でうまれなければならなかったことの背景には、人間の闇がありました。

 

 また最も悲惨な人間の闇は、ヘロデ王という王様が、ベツレヘムの2歳以下の幼児を殺してしまうという出来事でした。ヘロデ王は、ベツレヘムにイエス様が生まれたことを聞きつけ、「自分が王様の座を奪われるのではないか?」と恐れ、イエス様を殺すために、ベツレヘムの子どもたちを殺してしまうのです。イエス様はこの危機をなんとか逃れます。

 

 このようにイエス様誕生の出来事には、その美しさと闇が同居しているのです。皇帝アウグスト、宿屋の経営者、ヘロデ王、彼らは自分自身を守るために一生懸命でした。しかし自分自分と集中するあまり、いつの間にか暗やみに飲み込まれ、他人を愛さない生き方を選んでしまったのです。その結果、神様が臭くて、汚い馬小屋で生まれたのです。

 

 歌う会ではアメリカの小さい教会で起こった出来事をお話しました。あるアメリカの小さな教会でイエス様誕生の劇をすることになりました。子供達だけの劇でしたが、大人達が配役を考えました、「あなたは博士の役」「あなたは羊飼いの役」「あなたはマリヤとヨセフ」このようにどんどん決まっていく中、ある知恵遅れの男の子には配役がありませんでした。大人達は一生懸命考えて、彼に一つの簡単な役を与えました。それは宿屋の主人です。「駄目だ。部屋はない」それだけ言って、家畜小屋の方を指さす。これだけです。配役をもらった男の子は大喜び、彼は「駄目だ。部屋はない」と毎日練習をしました。

 

 そして劇当日、教会の大人達は「どうかあの男の子が役を演じ切ることができるように」お祈りをしました。そして劇の後半、いよいよ宿屋の主人の登場です。マリヤとヨセフが宿屋の前に来て、「どうか泊めてください」とお願いしました。その男の子は「駄目だ。部屋はない」と言って、家畜小屋の方を指さしたのです。教会の大人達は大喜び。しかし、その後事件が起こりました。男の子はワアと泣きだして、宿屋を去っていくマリヤとヨセフを追いかけ、こう言いました。「馬小屋に行かないで、あそこは臭いから、あそこは汚いから、どうか私の宿に泊まって」劇は途中で中断しました。しかしこの小さなアメリカの村で、これほど感動を読んだクリスマス劇はあとにもさきにもありませんでした。

 

あの男の子は「駄目だ。部屋はない」といった自分の発言の冷たさ。に気付いて、マリヤ役、ヨセフ役の子に駆け寄り、「馬小屋に行かないで、あそこは臭いから、あそこは汚いから、どうか私の宿に泊まって」と止めたのです。

 

大人達はハッとさせられたと思います。馬小屋にいくことをどこかで仕方がないことだと思っていた。だって宿がないのですから。男の子のように引き留めるだなんて考えてもいなかった。自分が闇に染まり、愛することがなんなのか?を忘れていたことに気付かされたことでしょう。

 

私達は誰しも一生懸命に生きています。しかしいつの間にか自分のことしか考えない闇に引きずり込まれてしまいます。イエス様はこの闇から、私達を救う光として世に来られました。「こんなはずではなかった」と自分の人生を悔いている人達。社会の闇に飲まれ、冷たくなってしまった人達。こんなことになるならやめておけば良かったと後悔をしている人達。あらゆる人達の抱える闇に対して、イエス様は光なのです。

 

 ここで私がこの闇から救われた経験を少しお話させてください。高校2年生の時です。私はクラスの人気者と友達になりました。彼を通して沢山の友人ができました。そんな中、あるキリスト教の高校生キャンプで証をすることになりました。証とは「自分の人生の経験を通して、神様はこんなに素晴らしいお方なんですよ」と伝えることです。

 

 しかしその証を引き受けたその直後から、私のクラスでの立場は一変しました。私は仲の良かったグループからイジメられるようになりました。今まで仲の良かった人達が、みんな手の平を返して、私から離れていきました。神様の恵みを少しも感じられない日々を過ごしました。そして事態がいっこうに解決されないまま、証をしなければならないキャンプの日が近づきました。どうしようか?学校が終わった後、よく夜の町を徘徊しながら、神様にお祈りをしていました。するとその中で心に暖かいものを感じるようになりました。今振り返って見る時、光なる主が真っ暗だった私の心の中に入って下さったのではないかと思います。現状は全く解決されていない。しかし現状に関係のなく、私の心を暖める神様の光、それを初めて知ったのです。私は結局、キャンプの証で「すごく悲しくて、大変な状況だけど、イエス様が私の中に来てくださって、心が暖かいんだ」という証をしました。その証は聞く皆さんの反応がとても良かったです。私はとてもかっこ悪く、そして無力でした。しかしそんな私でも「神様が素晴らしいこと」を伝えられたのです。こんな私でも主が用いてくださった。この経験から私は牧師を目指すことになりました。

 

 周りの人達の闇、自分自身の闇、これはなかなか変わりません。しかしそんな私達の心にイエス様が来てくださるのです。光なるイエス様は私達の内を暖かく照らしてくださいます。そして思うのです。「私が闇の中で、捜しもとめていた光は、これだったのだ」と。

 

 イエス様誕生の物語で私が最も共感するのは、羊飼いです。羊飼いは当時のイスラエルでは、非常に身分が低者達でした。また羊の世話があるので、礼拝にでることができず、軽蔑されていた人達でもあります。そんな彼らの元に突然、天使が現れます。そして天使は彼らに「飼い葉おけで寝ているイエス様に会いに行きなさい」と命じるのです。彼らは明確には場所を知りませんでしたから、ベツレヘムの家畜小屋を探して、やっとイエス様を見つけました。その時、イエス様と出会った彼らの反応がルカの福音書220節に書かれています。

 

20 羊飼いたちは、 見聞きしたことが、 全部御使いの話のとおりだったので、 神をあがめ、 賛美しながら帰って行った。

 

 彼らは家畜小屋を見つけて、イエス様に出会い、そして賛美しながら帰っていったのです。彼らの現状は一切、変わっていません。彼らはこの後も羊飼いをし続けていたことでしょう。しかしイエス様との出会いは、歌いながら帰るほどに、彼らを変えてしまったのです。

 

 私達はイエス様を信じたらどんな利益があるのか?が気になります。病気が治るのか?お金持ちになれるのか?もちろん、そういう祝福もあるかもしれません。しかし最も素晴らしいことは、光なる神様が私達の内に住んでくださることです。

 

私達がこの世から去った後、そこには病気やお金はありません。天国にあるものは、神様との深い関係です。ですから神様と共にいきること自体が永遠に続く、最も価値があるものといえます。

 

イエス様は私達と共に生きるために、地上にお生まれになりました。イエス様とこれからの人生も歩んでいく。そう決断するクリスマスとしましょう。一言お祈りします。

 

 

 

 

 

 

☆礼拝に続いて、持ち寄りによるランチタイムと祝会が行われました。