全ての御業に時がある 使徒の働き16章11~15節

【新改訳2017】
使
16:11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。
16:13 そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
16:14 リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。

 

 私たちは、神様から与えられたテスト(試練)を、神様なしで乗り越えようとしてはいけません。神と共に乗り越える、それは祈ること、御言葉を読むことでもありますが、何より礼拝をささげることです。礼拝は神様との出会いの場であり、これなしで神様と共に生きることは難しいでしょう。今日はパウロの伝道旅行の記事を読み進めますが、礼拝を守る大切さにも触れたいと思っています。

 

 マケドニアは、今のギリシャとブルガリアに当たる地域だそうです。つまり、パウロは本日の箇所から、ヨーロッパに宣教に行くことになります。トロアスからマケドニアに行く船には、少なくとも4人の人物、パウロ、シラス、テモテの他、ルカが乗っていました。それは1012節で主語が「私たちは」になっているからで、マケドニアに向かう直前に「使徒の働き」の著者ルカが加わったとされています。トロアスからネアポリスまで約260キロありますが、彼らは2日で横断し、さらに15キロ歩いてピリピに到着しました。植民都市(12)とは、抑圧されていたと言うより、特権を与えられた都市のことを言い、住民にはローマの市民権が与えられていました。当時、世界はローマ帝国の支配下にあったので、ローマの市民権を持っていることは、ピリピの人々には誇りでした。また、ピリピは農業が盛んで、港や金の鉱山もあって、人々がお金と地位を求めて集まってくる町でした。パウロがピリピでイエス様を伝えることは、容易ではなかったと思います。皆が忙しそうに見えたでしょう。それに今までの伝道旅行では、パウロはいつも会堂を回って、イエス様のことを宣べ伝えていたのですが、ピリピには会堂がありませんでした(13)。またパウロは、はぎりぎりまで神様のみこころが示されないという試練に立たされていました。マケドニアに来る前、どこに行くべきか、なかなかみこころが示されませんでしたし、ピリピではどう神様を伝えればよいのか、経験のない状況に立たされ、数日間を過ごすことになりました(12)。

 

 さて安息日になり、パウロは「祈り場があると思われる場所」(13)に行きました。おそらく町の人々の噂を聞いたのでしょう。するとそこには、聖書の神様を信じる女性たちが祈りをささげていました。その中の一人リディアは紫布の商人で、商売のためにピリピへやってきたのです。多分、1枚でも多くの布を売って、故郷に帰らなければならなかったと思います。彼女も、パウロと同じように試練の中にいました。しかしリディアは自分の故郷でもない町で、安息日にわざわざ休んで神様を礼拝していたのでした。彼女はここでパウロに出会い、100枚の布を売るより価値のある話を聞きました。それは、イエス・キリストによる救いでした。彼女はこの話を聞いて信じて、洗礼を受けました(15)。彼女の生き方も変わり、当時クリスチャンの間で勧められていたように、旅人をもてなすようになりました(15)。リディアは、平日祝日誰でも忙しいピリピの町で、そこから離れて礼拝をささげました。同業者に遅れをとるのではと心配したり、礼拝ではなく別の楽しみを探すのでもなく。全能の神様に信頼して安息日の一日を神様と過ごした時、彼女に本当に必要なみことば、イエス・キリストによる救いが与えられました。パウロも、慣れないピリピの町で礼拝の場に集ってリディアに出会い、イエス様のことを宣べ伝えることができました。

 

 ここから私たちが学べることは、私たちのすべては礼拝から始まるということです。どんな時でも礼拝を大事にする、これが神様が私たちに求めておられていることではないでしょうか(出エジ20810)。「安息日」という言葉は、ヘブル語ではシャバットと言いますが、これには「止まる、やめる」という意味があります。止まることには何と勇気がいることでしょう。日本中の人が仕事や遊びに動いている中で、主は私たちに止まることを求めておられます。私たちは自分の人生、時間がすべて自分のものだと錯覚してしまいます。しかし実際は、神様が私たちに人生と生きる意味を与えられたのです。すべての人に共通して与えられている人生の目的は、神を礼拝することです。安息日にすべてを止めて神様を見上げることは、何と平安で清々しいことでしょう。それは私たちの生きる目的だからです。神様は私たちを愛して下さっています。私たちも安息日を聖別し、神様を愛する時間を持ちましょう。私たちは礼拝に生きる民として、共に歩んでいきたいと思います。

 

 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩4610)。

 

天の父なる神様、私たちがこの人生において、神様に信頼してやめる、止まるということは、時に何と難しいことでしょうか。私たちは自分の人生を自分の力でコントロールしているような気になって、とにかく動きたいと思いますが、あなたは、わたしを信頼して一日休みなさいと仰います。そしてその一日は、神様を見上げて過ごしなさい、神様を讃美して過ごしなさいと仰っておられます。どうぞ、私たちが神様に与えられた安息日を喜ぶことができますように。「安息日は人のために設けられた」(マルコ227)とあるように、

 

私たちが安息日を神と共に過ごし、礼拝に生きる民として歩んでいくことができますように主よ、お願いいたします。201969日礼拝 武田遣嗣牧師)