みことばの力 へブル人への手紙4章12節

 

【新改訳2017

 

ヘブル

 

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 

 

 みことばについて、聖書の多くの箇所で語られています(Ⅱテモテ315,16、詩12,3、ヨシュア18、詩119105、箴1313)。聖書のみことばは霊感によって書かれたものですから、普通のことばではありません。例えば皆さんは、みことばによって新しくされてクリスチャンになったと思います(ローマ1017)。

 

特にイエス様が山上の説教で語られたみことば(マタ57章)は、私たちの心を揺り動かす力があります。この場面は、今なら野外礼拝と言えると思います。この野外礼拝には使徒たち、病に苦しむ人たち、悪霊につかれた人たちなど、大勢の群衆が集まっていました(マタ424,25)。人々は様々な問題を抱え、人生をあきらめて生きていたかもしれません。でもイエス様が語られたことばの中に、何か新しいものがあると感じました(マタ728,29)。

 

人間なら、誰でも幸せになりたいと願うものです。そして幸せは、掴んだらすぐに逃げてしまうものだと言われるのに、世の中の人はそのいつ逃げられるかわからないものを求めています。今回の台風でも、二百万くらいで買ったばかりの新車が水没してしまったとか、新築の家が使えなくなってしまったとかいう話を耳にしました。また、結婚すれば幸せになると思って結婚したけれど、ひと月くらいたつと互いの欠点が見えてきて夫婦喧嘩が始まるということもあります。幸せな結婚生活が突然、壊されることもあります。今年池袋で、88歳の老人が運転する車が暴走し、3歳の長女と母親がはねられて亡くなる事件が起こりました。残された父親は記者会見の席上、愛する家族との日常は幸せだった、心の痛みを乗り越えることはできない、この痛みを抱えて生きていきたいと語っていました。

 

さて、山上の説教に戻りましょう。「心の貧しい者」(マタ53)とは、イエス様しか頼る方がいないという心を表しています。「幸いです」とは、神様に祝福されているということです。なぜ心の貧しい者は幸いなのか、それは天の御国はその人たちのものだからだ、とイエス様は言われました。心の貧しい者、つまり真の救いを信じ、イエス様に頼る人の幸せには天の御国との関りがあります。世の中の人が幸せの基準にする金銭、健康、家族は、いつかは失われてしまいます。ただ一つ失われないものがあるとすれば、それはイエス様との人格的な関りです。イエス様との交わりが失われない限り、私たちの幸せは決して失われることはありません。救い主イエス様を信じる者は誰でも幸せを持つことができます。それは神様の特別な恵みです。ペテロはイエス様に「私は、罪深い人間ですから」と告白しました。私たちも聖書のみことばを通してイエス様に出会う時に、自分の罪を示され、その罪を悔い改め、イエス様を信じるようになる、心の貧しい者にされます。

 

 また、旧約聖書からもみことばの力を知ることができます。天地万物は神様のことばによって創られました(創1章)。神様はアブラハムにみことばを与え、アブラハムは信じました(創15章)。その結果、彼には101歳で子どもが与えられ、その子孫は空の星のようになりました。幸福の条件が全く整っていない中で幸福をつくりだして下さる、これが神様のみことばの力です。みことばは神様のもとに空しく帰って行くのではなく、生きたものとなって私たちの中に入り、新しいものを生み出していくのです(イザヤ5510,11)。

 恵み深い天の父なる神様、あなたの御名をほめたたえます。みことばの力、それは私たちの理解を超えた力です。どうか那珂湊教会、大洗教会の上にも、みことばによって神様の御力が現わされますように。そして武田先生をはじめ、教会員一人一人の歩みが祝福された歩みとなりますように、どうぞ導いてください。(20191020日礼拝 尾崎祐司牧師)

 ☆本日の礼拝は、大洗キリスト教会と合同で、尾崎祐司師にメッセージを取り次いでいただきました。武田牧師は休暇に合わせ、出身教会の武庫川キリスト教会で説教の奉仕を行いました。