恵みのみことばにゆだねて 使徒の働き20章27~38節

 

【新改訳2017

 

使

 

20:27 私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。

 

20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

 

20:29 私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。

 

20:30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

 

20:31 ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

 

20:32 今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

 

20:33 私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。

 

20:34 あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。

 

20:35 このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

 

20:36 こう言ってから、パウロは皆とともに、ひざまずいて祈った。

 

20:37 皆は声をあげて泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけした。

 

20:38 「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言った彼のことばに、特に心を痛めたのである。それから、彼らはパウロを船まで見送った。

 

 

 パウロは教会を羊の群れに例えました。また教会の指導者には羊飼い、父なる神様には大牧者というイメージを持っていることがわかります。そしてパウロは、この羊と羊飼いのイメージで教会をとらえ、エペソ教会を励まそうとしました。この箇所には、現代に生きる私たちにも大きな励ましとなるメッセージがあります。

 

 エペソ教会の長老たち(17)とは、今なら牧師や役員を指すでしょう。パウロは彼らを二年かけて育て、エペソ教会の成長に貢献しました。パウロはこれまで、羊飼いのように彼らを導いてきました。しかし彼は、大牧者である神様に命じられてエペソを去らなければなりません(2025)。「誰の血に対しても責任がありません」(26)は、指導者として責任逃れの発言のように思われますが、実はそうではありません。パウロは自分の役割をしっかりと把握し、その役割を完了することに集中していました。彼はこの世でどれほど多くの事を成し遂げたかではなく、どれほど神様の使命に忠実だったのかということを常に意識していました。そして私たちもパウロのように、今与えられている使命にどれほど忠実だったのかを問われています。

 

 パウロは長老たちに、「自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」と言いました(28)。「気を配る」とは「関心を向ける」とも訳すことができます。まず自分に関心を向け、そして群れに関心を向けることが指導者的立場の者に必要だということです。今年度は2032が年間聖句になっていますが、私は自分がこの教会の目標に生きることができているのかを、何度も問われてきました。本当に去年よりみことばを味わっているのか、考えさせられます。自分の行いや言葉を振り返り、吟味しつつ進んでいかなければならないと思っています。教える側が高慢になって、自分が成熟した者だと勘違いしないように祈っていただきたいと思います。また、導く者たちがみことばに生きる者となるようお祈りして下さい。さらに28節に注目すると、神様が教会の大牧者であることが強調されています。パウロの告別説教は、神が教会を動かしておられるということを、長老たちにわからせるためだったと言っても過言ではありません。エペソ教会を動かしているのはパウロでも長老たちでもなく、神様なのだということです。パウロが敢えてエペソに戻ってくることは二度とないと語ったのは、エペソ教会がパウロに依り頼むのをやめさせるためではないでしょうか。教会は神様を見上げなければならない、この主張がピークに達した時の言葉が今年度の年間聖句、32節です。

 

 パウロはエペソ教会を、「神とその恵みのみことば」とにゆだねました(32)。私たちは大牧者である神様のみことばを、いつも信じていきたいと思います。みことばを聞きましょう。みことばが私たちを霊的に成長させるからです。みことばを聞かなければ、今本当に自分や教会がなすべき使命は見えてこないでしょう。また、みことばを聞くとは御国を受け継がせることに繋がってきます。「受け継がせる」(32)ということばは、相続するという意味で使われることが多いです。私たちは、神様の子どもとして御国を相続することができる、だから天の御国に入ることができるわけです。私たちは神様に救われて神の子どもとされたから、天の御国に行く約束の中で生きることができる、みことばが私たちにもたらす祝福は、何と大きなものでしょうか。

 

 最後に3638節を読みましょう。パウロはこの告別説教の最後に、エペソ教会の皆と共に祈ったと書かれています。祈りを通して、最後に皆で神様を見上げたのです。パウロは最後まで神様の栄光を現すために生きていた、ということがわかります。エペソの教会の長老たちはパウロの告別説教を通し、神様を見上げて生きることのすばらしさ、安心を知ったのではないでしょうか。私たちの教会にも、大牧者である神様がおられます。神様はここにいる一人一人を教会に呼び、役割を与え、歩ませようとしておられます。私たちはいつも神様のみことばに聞き、自分に対する神様の御心を確かめつつ歩んでいきたいと思います。

 

 東関東大震災があった翌年、私は聖書の専門家が震災について語るセミナーに参加しました。その中で特に覚えているのは、ある日本人の先生が「教会の百年後を考えよう」と仰ったことでした。この言葉を聞いて、たとえ目の前に多くの問題があったとしても、神様の大きな計画をめざして進んでいくすばらしさ、大切さを知りました。教会や私たちの人生には、いつも何か問題があるものです。しかし大牧者なる神様が大きなご計画を持っておられる、神様が私たちの傍にいて下さるという確信があれば、私たちはどんな状況でも教会生活を喜ぶことができるのではないでしょうか。大牧者を見上げることができる恵みを心から感謝したいと思います。

 

 天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。私たちの教会にも、大牧者である神様が臨在して下さっていることをありがとうございます。私たちがいつも神様の御声を聞き、神様から使命を受け、その使命を忠実に全うする者でありますように助けて下さい。(20191027日礼拝 武田遣嗣牧師)