見えるようになりなさい 使徒の働き22章1~16節

 

【新改訳2017

 

使

 

[ 22 ]

 

22:1 「兄弟ならびに父である皆さん。今から申し上げる私の弁明を聞いてください。」

 

22:2 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静かになった。そこでパウロは言った。

 

22:3 「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

 

22:4 そしてこの道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。

 

22:5 このことについては、大祭司や長老会全体も私のために証言してくれます。この人たちから兄弟たちに宛てた手紙まで受け取って、私はダマスコへ向かいました。そこにいる者たちも縛り上げ、エルサレムに引いて来て処罰するためでした。

 

22:6 私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました。

 

22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』

 

22:8 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』

 

22:9 一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。

 

22:10 私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことが、そこであなたに告げられる』と。

 

22:11 私はその光の輝きのために目が見えなくなっていたので、一緒にいた人たちに手を引いてもらって、ダマスコに入りました。

 

22:12 すると、律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い、アナニアという人が、

 

22:13 私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ、再び見えるようになりなさい』と言いました。するとそのとき、私はその人が見えるようになりました。

 

22:14 彼はこう言いました。『私たちの父祖の神は、あなたをお選びになりました。あなたがみこころを知り、義なる方を見、その方の口から御声を聞くようになるためです。

 

22:15 あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。

 

22:16 さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』

 

 

 今日は、このパウロの証を三つに分けてお話しします。

 

第一は、パウロがイエス様に出会う前です(3,4)。ここには、パウロに関する新しい情報が二つ記されています。一つは、パウロがガマリエルという人物のもとで、厳しい教育を受けていたということです。ガマリエルはパリサイ人のトップで、当時は最も偉大なパリサイ人だと言われていました。パリサイ人は正しい行いによって救われると考えていて、パウロは幼少の頃からそのような教育を受けていたことがわかります。もう一つは、パウロが間接的であっても、人を殺していたということです。恐ろしいのは、パウロが正しい行いをしているという意識の下で、それを行っていたということです。パウロは誰よりも正しく生きて、自分の行いによって救われようとしていたのですが、その正しさは不完全で歪んだものでした。

 

 第二は、そんなパウロがイエス様と出会った箇所です(68)。ダマスコにクリスチャンを迫害しに行く途中、パウロは突然眩い光に照らされて、失明してしまいました。そして、彼はそこでイエス様の御声を聞きます。パウロは自分の救いのために迫害をしてきました。しかし、それは真の神様を迫害することだったのです。

 

 第三は、イエス様に出会った後です(10)。パウロは失明したので、自分の力で歩けません。自分の正しい行いを信じていた彼が、助けを借りなければ何もできない状況に陥ってしまいました。自分の行いに頼ることができないので、神様に叫ぶしかありませんでした。私たちもパウロのように、八方塞がりの状況に陥ることがあるかもしれません。神様は、そのような状況に私たちをあえて立たせます。神様は、私たちが心から神様を求めるのを待っておられます。そしてみことばを与え、ご自分の身もとに引き寄せようとされるのです。パウロは盲目の中、ダマスコに行きなさい、というイエス様の命令に従いました。「ダマスコに行きなさい」という言葉は、非常に興味深いと思います。ダマスコは、パウロが迫害に行こうと思っていた町であり、迫害しようと思っていたクリスチャンの一人、アナニヤに助けられるからです。神様の計画は、とてもユニークだと思わされます。私たちの友人や家族も、どのように救われていくのかわかりません。

 

「見えるようになりなさい」は、新約聖書では20回ぐらい出てきますが、大体イエス様が盲人の目を開かせる時に使われています。この時、パウロの霊的な目も開かれ、正しい行いによる救いではなく、恵みによる救いを信じるようになっていきました。

 

さて、神様はなぜパウロを、また私たちを選んで救われたのでしょうか(14)。第一は神様のみこころを知るためです。神様が私たちの心を知っているように、私たちも神様の心を知ってほしいと、神様は望んでおられます。第二は、義なる方を見るためです。神様がずっと私たちを見ているように、私たちも神様を見上げることを神様は望んでおられます。第三は、御声を聞くためです。神様が私たちの祈りを聞いて下さるように、私たちも神のみことばを聞くことを神様は望んでおられます。総じて、神様はパウロと父と子のような関係を結びたいと願っておられることがわかります。神様がパウロに望んでおられたのは、伝道という行いより、パウロが神様の子となることでした。私たちに対しても同じです。私たちは日常生活の中で、神様を見上げる時間を持っているでしょうか。

 

少し話が変わりますが、私は恵みによって救われたのだから、何をしてもいいのだと言う人がいます。つまり、正しいことをしなくても救われるのだから好きに生きようというわけです。この人の本質的な問題は、イエス様が救いのためにどれほど犠牲を払って下さったかを理解していないということです。今「みことばの光」でレビ記を読んでいますが、そこで繰り返されているのは、私たちの罪が血を流すことによってしか、ゆるされないということです。イエス様は私たちの深刻な罪の故に、自ら血を流すことによって、私たちを救いに導いて下さいました。私たちの罪がどれほどで、そのためにイエス様がどれほどの犠牲を払って下さったのか、この理解を私たちは深めていく必要があります。理解を深めることを通し、私たちはイエス様のような犠牲的な愛で神と人を愛する歩みに導かれるでしょう。パウロはこの後、あらゆるものを犠牲にしてイエス様の福音を宣べ伝えていきます。それは強制的に働かされたのではありません。イエス様の犠牲の意味をよく知っていたから、自らの意志で、犠牲的な愛をもって宣教したのではないでしょうか。私たちも主がどれほど愛して下さったか、どれほど犠牲を払って下さったかを覚えて、喜びつつ礼拝、奉仕、献金をし、兄弟姉妹を愛する、そのような信仰生活を送っていければと思います。

 

天の父なる神様、御名を崇め、讃美いたします。私たちは、自分の正しい行いで救われることはできません。私たちの奉仕や礼拝出席は、私たちの救いに何の貢献もしません。私たちは、救われた恵みによって奉仕をし、礼拝をささげます。すべては救いの喜びによるものです。主よ、どうぞ私たちが自分の罪を、また神様の尊い犠牲がどれほど深かったかを深く知ることができますように。また、イエス様の愛がどれほど素晴らしいか知ることができますよう、日々みことばや様々なことから教えてください。(2020126日礼拝 武田遣嗣牧師)