神の義 ローマ人への手紙3章25~26節

 

【新改訳2017

 

ロマ

 

3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

 

3:26 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

 

 

神様が正しい方であるのは当たり前ですが、これは人間にはとても重要でもあり、厄介でもあるでしょう。人間は公平な裁きと、自分に都合の良い裁きとを期待しているからです。私たちは悪人が裁かれ、正義が守られることを期待する一方、自分がまずいことをした時、大目に見たり、見逃してくれることを期待します。もし正しい神様が私をご覧になったら、私を悪者として裁かれてしまうのでしょうか。或いは義と認められ、報いが与えられるでしょうか。 

 

 神の義を考える時、まずおさえておくべきことは、神様は正しい基準を持っておられるということです。神様の基準は完全で、気まぐれに変わるものではありません(詩197,8)。それは高く、人間が及ばないものです(詩366)。神様ご自身が義であり、ご自身が基準であられます。神様は、この基準に従って物事を為すお方です(エレミヤ924)。ここから導かれることは、神様は正しい裁きをされるということです。私たちは世界が正しい基準によって公正に裁かれることを期待しています。今は一時的に悪が栄えているように見えるかもしれませんが、神様は義であり、公正なお方ですから、必ず正しい裁きを行われます。神を無視する者にとっては、神の裁きは恐ろしいかもしれませんが、神に寄り頼む者にとっては、神の裁きはむしろ救いとなります(詩979)。私たちは神様を怖れて、神様の基準に従って歩みたいと思います。

 

 しかし、完全に聖い神様の前に、胸を張って出られる人は誰一人いません。神の基準に照らしてみると誰も生き残れず、むしろその罪、汚れに従って滅ぼされてしまでしょう。しかし滅ぼされていない、それは神の忍耐の故です(ローマ325)。神様は、私たち人間が罪ゆえに神の怒りに触れ、滅ぼされることを良しとされず、むしろ罪ある者の裁きを忍耐をもって先延ばしにして下さっていたのでした。

 

 人間の罪とは、神と神のことばを信じず、自分の判断を最も大切にする自己中心といえるでしょう。どんなに誠実に歩んでも、神を無視し、神の基準である聖書に聞かないなら、神様の義に到達することはできません。人類最初の罪は、神のことばに聞き従うか否かでした(創世記21617)。人は神様の命令を守っている間は、神様と共にあって永遠のいのちを持っていました。しかし神のことばに聞き従わず、自分勝手に判断し、神の命令を破るなら、そこには恐ろしい刑罰がありました。この世界が神様によってつくられている以上、神様のことばは絶対です。ですから神様のことばを守らず、戒めを破るなら、人はいのちを絶たれ、死ぬことになります。人は罪故に、必ず死ぬのです。しかし、その死からの救い、神様への反逆から立ち返る道を神様は備えられました(レビ171011)。人のいのちを贖うために代わりのいのち(血)を示されたのです。旧約の時代には動物のいけにえが神の怒りを宥めるものとなりました。罪の罰は死であり、身代わりによって死から救い出されるために血が流され、いのちが差し出される必要がありました。後に神様はこれを自ら為して下さいました(ローマ325)。神様はご自身の基準を曲げません。罪は必ず裁かれなければならず、その刑罰は死です。罪ある者は神様の公正な裁きによって、死罪にならざるを得ません。そこで神様は身代わりを立てることにより、死刑を執行されました。聖い神様は罪に対し怒っておられましたが、この供え物によって正しい裁きがなされ、神の義が満たされ、守られたのでした。一方、この身代わりの犠牲を信じる信仰によって、信じる者が神の基準にかなった者として義と認められるのです。人間を救う神の愛、完全な基準を完全に全うする神の義、この二つが出合うところがイエス・キリストの十字架です。

 

死といのちに関わるこの問題を、神様は再び信じるか否かのみことばとなさいました(ローマ10911)。神様は、今や罪に対して正しい裁きがなされ、罪に対する神の怒りが宥められるために、供え物をご自身で用意されました。神の義が全うされたのです。私たち人間がこの身代わりの供え物にあずかるのは、信仰によります。信仰を持って、祈りのうちに神様の用意して下さった宥めの供え物、身代わりの十字架を信じましょう。

 

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。(ピリピ1911)」(2020329日礼拝 水戸下市教会 渡部和彦牧師)