目に見えぬ偉大な神 使徒の働き28章11~15節

 

【新改訳2017

 

使

 

28:11 三か月後、私たちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船で出発した。その船首にはディオスクロイの飾りが付いていた。

 

28:12 私たちはシラクサに寄港して、三日間そこに滞在し、

 

28:13 そこから錨を上げて、レギオンに達した。一日たつと南風が吹き始めたので、二日目にはプテオリに入港した。

 

28:14 その町で、私たちは兄弟たちを見つけ、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマにやって来た。

 

28:15 ローマからは、私たちのことを聞いた兄弟たちが、アピイ・フォルムとトレス・タベルネまで、私たちを迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。

 

 

 今日の個所は、①ローマの旅終盤(1114)、②ローマの兄弟たちとの出会い(15)の二つに分けて学びましょう。

 

 ①については、マルタ島からローマまでの旅が記されています。それは、今までの旅(シドン→ミラ→クレタ→マルタ)とは比べものにならないほど順調でした。例えば、レギオンからプテオリ(約300キロの航路)に行くには海峡を渡らなければなりませんが、丁度良い南風が吹いて、わずか二日で到着することができました。また、プテオリは当時小麦の取引が盛んな大きな港町でした。パウロの乗った船のリーダー、百人隊長がここでおそらく手続きをしていたであろう間(七日間)、パウロたちはクリスチャンに出会い、彼らの家に滞在することができました。この七日間は、パウロにとってどんなに励まされた時だったでしょう。もしパウロが旅の終盤も試練に遭い、疲労困憊のままローマに到着したら、ローマで証しするという最大の使命を果たすことができなかったかもしれません。つまり神様は、最もいいタイミングでパウロに休息を与えたのです。神様は私たちの良い父です。最も良いタイミングで、私たちに試練と休息を与えて下さるお方です(ヘブル121011)。

 

 さて、パウロが乗りこんた船には、ディオスクロイの飾りが付いていた(11)とあります。ディオスクロイとは、ギリシャの神ゼウスの双子の子どもで、航海をつかさどる神でした。そして双子座の双子は、ディオスクロイのことだそうです。パウロの時代、船旅の途中で双子座が見えたら、船に幸運があると考えられていました。ですから、パウロたちの船が漂流した時も、一部の人たちは双子座を探しただろうと思います。しかし船からは全く星が見えませんでした(2720)。ディオスクロイは、パウロたちを助けることはありませんでした。彼らを助けたのは真の神様です。しかし、神様が私たちを助けて下さった、ということがたくさん書かれている後に、ルカはなぜ11節でディオスクロイの飾りについて書いたのでしょうか。これは、ルカの皮肉だと言われています。確かに船にはディオスクロイの偶像があるけれど、あなたを本当に助けてくれる救い主はどなたですか、ということを、ルカは読者に暗に問いかけているのです。私たちの救い主は、目に見えぬ偉大な神です。この世界をつくられた偉大なお方です。すべてがこの神の御手の中で起こっています。しかし、私たちはそのことに考えが及ばず、神様を見上げないで困難にただ絶望するだけではないでしょうか。神様ではない、ディオスクロイのような、目に見えるものにだけに頼っていないでしょうか。父なる神様だけが、私たちを試練から助けることができるお方です。

 

 次に15節に移りましょう。ルカは、この節を書きたくて仕方がなかったのだと思います。14節では、「私たちはローマにやって来た」と書かれていますが、15節はローマ到着前の話で、時系列がひっくり返っています。ルカは順序だてて書くことにこだわりを持っていた人でしたが、その原則を破ってまでも、どうしても15節を書きたかったのでしょう。それほど、このローマの信徒が自分たちを迎えに来てくれたことが嬉しかったのだと想像できます。彼らはパウロとは初対面でしたが、「ローマ人への手紙」を繰り返し読んで、信仰生活を歩んできました。そして遂に、パウロと顔と顔を合わせて対面したわけです。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられたと書かれています。

 

 「感謝し、勇気づけられた」ということばを見た時、私はボンヘッファーが書いた「共に生きる生活」という本を思い出しました。彼は、ナチスに抵抗した牧師として知られています。彼の時代、ナチスを支持する教会と支持しない告白教会に分かれてしまい、交わりを持つことが難しい状況でした。しかしそのような状況だからこそ、ボンヘッファーは兄弟と共に生きる大切さを実感していました。「感謝ということは、キリスト者の生活のほかの面においてもそうであるように、キリスト者の交わりにおいても大切なことである。わずかなものにも感謝する者だけが、大きなものを受けるのである(『共に生きる生活』)」。彼は、いつ教会の交わりが政府によって奪われるかわからない中、この本を書きました。実際、ボンヘッファーはこの本を書いたあとすぐ逮捕され、強制収容所で亡くなりました。彼は現代の私たちにも、兄弟姉妹と共に生きることがいかに恵みかということを語りかけています。

 

 それと同時に、ボンヘッファーは、教会の交わりに自分の理想を押し付けないよう注意をしました。彼は、自分の理想を他の教会に押し付けることによって歴史上、数々の教会が破壊されていった、とにかく現状の交わりを感謝することから始めなさいと言っています。15節の、ローマの信徒とパウロとの出会いには感謝がありました。私たちも、神様から恵みとしていただいている兄弟姉妹との交わりを心から感謝して、喜ぶ者でありたいと思います。 

 

 天の父なる神様、御名を崇め、賛美いたします。イエス様は、私たちのために十字架にかかって下さいました。その十字架は神と人との和解を生み出し、人と人との和解を生み出しました。イエス様が十字架上で孤独になって下さったからこそ、私たちには教会の交わりがあります。そのことに心から感謝します。どうぞ、ローマの信徒とパウロが心からその出会いを喜び、感謝したように、私たちも毎週毎週、周りの兄弟姉妹のことを喜ぶことができますように助けて下さい。みことばをありがとうございます。(2020621日礼拝 武田遣嗣牧師)