神をほめたたえる祈り サムエル記第一2章1~10節

【新改訳2017

Ⅰサム

[ 2 ]

2:1 ハンナは祈った。「私の心は【主】にあって大いに喜び、私の角は【主】によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。

2:2 【主】のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。

2:3 おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。

2:4 勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。

2:5 満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

2:6 【主】は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。

2:7 【主】は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。

2:8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は【主】のもの。その上に主は世界を据えられました。

2:9 主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。

 

2:10 【主】は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。【主】は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」

 今日の個所、ハンナの祈りは読み飛ばしても何の支障もないようですが、今後の展開に関わる重要な主題について触れており、サムエル記第二最後のダビデの賛美と共に、物語全体を挟み込んでいるような構造になっています。

 さて、1章のハンナの祈りは、苦しみの祈りでした。しかし2章のハンナの祈りは、主にある喜びで満ちています(1)。彼女の喜びの源泉が、主ご自身であることがわかります。ハンナは苦しんで祈る中で、神様との親密な関係を築きました。私が高校生の時、牧師を目指そうと思ったのは、この喜びを体験したからです。学校での人間関係に躓き、誰も信用できないと思っていた時に、本気で祈ることを始めました。その中で状況は何も改善していないのに、神様との関係から生まれる喜びを体験したのです。私たちもハンナと同じように、神様との親しい交わりからくる喜びを得ることができます。

 2節には、神様のすばらしいご性質が書かれています。ハンナは祈りの中で、神様のすばらしいご性質を知ることができました。神が聖であるということは、簡単に言えば他のあらゆるものと区別された存在だということです。神様はこの世界のすべてをつくられた方であり、それ以外は、神様につくられたものです。区別された方、それが聖なる神様です。

 45節には、神様のみわざが書かれています。このような、状況を大逆転させる神様のみわざは、サムエル記の重要なポイントです。たとえば、神様は末っ子だったダビデを王として選びました。また、小さなダビデが巨人ゴリヤテを倒したことも、神の力による逆転でした。悪い逆転もあります。サウル王は不信仰によって王の座から退かねばなりませんでした。また祭司エリの息子たちは、強欲の罪で死ななければなりませんでした。サムエル記には、このような神の力による逆転が何度も書かれています。それをハンナの祈りでは先取りしているのです。

 しかし、逆転は好き勝手に行われるのではありません。神様は正義の方なので、人の心を見て敬虔な人を守り、悪者を滅ぼされます(910)。ただし聖書は、人は皆罪人だと教えています。私たちが正しくあり続けるのは、ほとんど不可能ではないでしょうか。私が神学校で学んでいた時、ある旧約聖書の教授が、サウル王とダビデ王の違いについて教えて下さいました。ダビデ王は40年間在位したのに、サウル王はたった2年しか王ではなかった、この違いを非常にシンプルな言葉で説明されました。つまり、すぐにごめんなさいと言えたかどうかだというのです。サウル王もダビデ王も罪を犯しましたが、ダビデ王はすぐにあやまりました。しかしサウル王は言い訳をつけて、自分の罪を認めなかったのです。これは大人になるにつれ頑固になり、すぐにあやまれない自分が、今でもよく思い出す話です。私たちは、常に正しくあることなどできません。ですから、砕かれた心ですぐに悔い改められる者でありたいと思います。

 10節後半は、王について書かれています。サムエル記第一2章の時点では、イスラエルにはまだ王がたてられていませんでした。しかしハンナの祈りでは、イスラエルに王がたてられるという主題を先取りして述べています。そして王も、神様から力をいただかなければならないことが強調されています。サムエル記は簡単に分けると、サムエル、サウル、ダビデの物語に分類されますが、ここから始まる王の物語すべてに、神がおられるということを10節で表しているのです。たとえば、ダビデがサウル王に殺されそうになる個所があります。このような理不尽な目にあっている時も、神様はダビデのそばにいて下さり、助け出して下さいました。私たちの人生にも、このような悲しい、また理不尽なことがあるでしょう。しかし、そこに必ず神様がおられるということを覚えておきましょう。神様は、私たちの人生を逆転させることができる、聖なる神様です。この神様と親しく語り合い、罪を悔い改めること、また共に祈ることは何と幸いでしょうか。

 

 天の父なる神様、御名を崇め、賛美いたします。私たちの歩む人生、一歩一歩にあなたが共にいて下さることを、本当にありがとうございます。主よ、どうぞみことばを通して、また祈りを通して私たちを導いてください。私たちの幸いが薄く見える日であったとしても、その先にはあなたのすばらしいご計画があることを信じます。私たちのゴールは天の御国であて、悲しいものではないことを信じます。どうぞ、ハンナのように苦しい時こそあなたのところに行くことができますように。そして、主にあっての喜びを私たちが手に入れることができますように、一人一人を励まして下さい。(202082日礼拝 武田遣嗣牧師)