神の子どもとされる幸い ローマ人への手紙8章12~17節

【新改訳2017

ロマ

8:12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

8:14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

 

8:17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 私が高校生の時参加してキャンプで、当時流行していたロックバンドの歌詞が使われたことがありました。「抱いたはずが突き飛ばし、包むはずが切り刻んで、撫でるつもりが引っ掻いて、また愛求める」、心の思いを正直に言っている歌詞だと思いました。このように、したくない悪を行ってしまう人間の罪の性質をパウロは肉と呼び(12)、自身も自分の罪の性質に苦しんでいました(72125)。

 私が自身の罪について考えるようになったのは、CSルイスの「キリスト教の精髄」という本を読んだ時でした。この本は、人は正義を願っているのに悪を行っている、それは実に不思議ではないか、という疑問から始まります。確かに、私も周りの友人も、正しいことをしたいと願っている、それなのにできないのです。私は牧師になる前、教会はこうあるべきだ、なぜこうならないのかと、聖書を盾に正論を振りかざす時期がありました。しかし自分が牧師になってから、あの時こうあるべきと考えていたことができていないのに気付きます。評論家気取りでいた時はよかったのですが、いざやる側になるとそれができない、聖書の教えと自分自身の心、行いの乖離に気付くのです。私は生きれば生きるほど、自分の肉の性質が明らかになっているような気がしています。

 13節に進みましょう。13節を端的に言うと、私たちは自身の行いでは自身を救うことはできないということです。そして、罪の結果たどり着くのは死だというのです。私たちは自分の行いが正しいと思うことによって、安心感を得たいものです。だから正論で人を攻撃したり、陰口をたたいたりするのでしょう。それは、自分を周りに認めてほしいからです。しかし、自分が正しいとする安心は仮初めであり、実は死につながっている、というのが聖書の主張なのです。

 では、どうすれば私たちは救いに導かれることができるでしょうか。聖書は、御霊(聖霊)によって救われなさいと教えています。J.I.パッカーという聖書学者は、聖霊はまるで照明灯のようだと言いました。例えば、きれいな建物がライトアップされていると、それを見た私たちはきれいだなあと思います。しかし、この建物を照らしている照明はどこだろうと、探す人はいないと思うのです。聖霊の役割は、このライトアップと同じです。神、またイエス・キリストの救いを光り輝かせて、私たちがイエス様を信じることができるようにする、これが聖霊の一番大きな働きです。ローマ83には、イエス・キリストの救いについて書かれています。イエス様は、罪により死ぬ運命にあった私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さいました。これはもう2000年も前の出来事ですが、聖霊は、この十字架が私たちのためだったということを信じさせるというのです。ですから、私たちに聖霊が豊かに働く時、私たちは救いに与ることができます。

 では、私たちが救われるとは一体、どういうことでしょうか(1415)。この個所を読んだ時、「放蕩息子」(ルカ151132)の話を思い出しました。父親の財産を散財した息子は、「子ども」としてはもう父親のもとへ帰れない、「召使」として帰ろうと考えました。召使も奴隷(15)も、働き次第では解雇されることもあり、見捨てられる恐怖があります。しかし放蕩息子の父親は、息子を召使でも奴隷でもなく、息子として迎えました。私たちの罪がたとえ自業自得であったとしても、神様は私たちと父と子の関係を結んで下さいます。ですから、クリスチャンは人に認められるために、愛されるために働く必要はありません。もう、その勝負から降りていいのです。なぜなら、何があっても神の子どもとして私たちを見捨てないで、いつも共にいて下さる父なる神様がおられるからです。

 そしてみことばを聞く時、兄弟たちと交わる時、祈る時、私たちの内にいる聖霊は照明灯のように神様とイエス様の救いを照らし、あなたは神の子どもだということを教え続けて下さいます(1617)。したくない悪を行う私たちには、イエス・キリストを信じ、ただ恵みによって救われるしかありません。私たちは、恵みによって救われていることを、今日も心から喜びましょう。

 

 天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。人間の愚かな行いではなく、イエス様の十字架の救いによって私たちをよみから引上げて下さったことをありがとうございます。放蕩息子のように自分の弱さに打ちひしがれ、もう神のもとには帰ることはできないと思っておられる方々もおられるかもしれません。しかしイエス様は、自業自得の罪であっても悔い改めるのなら、ご自身のもとに私たちを引き寄せて下さいます。聖霊様、どうぞ一人一人の心を照らし、イエス・キリストの救いのすばらしさを私たち一人一人に感じさせて下さいますようお願いいたします。(202089日礼拝 武田遣嗣牧師)