神の国と神の義を求める サムエル記第一2章12~17節

【新改訳2017

Ⅰサム

2:12 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、【主】を知らなかった。

2:13 民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、

2:14 これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。

2:15 そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、

2:16 人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。

 

2:17 このように、子弟たちの罪は、【主】の前で非常に大きかった。この人たちは【主】へのささげ物を侮ったのである。

 エリの息子たちは、神殿で祭司をしていました。祭司とは、人々から神様へのささげものをあずかって、それを神様にささげる、神と人との仲介者のことです。しかし12節を見ると「主を知らなかった」とあります。彼らは神に仕える仕事をしているのですから、知識としては神様を知っているはずです。しかし彼らは神様を本当は認めておらず、とても高慢でした。彼らが支配されていたのは、強欲の罪でした(1316)。聖書は、強欲はいつのまにか私たちを支配してしまうと言っています(ルカ1215)。強欲の元は、不安や恐れです。多くの金品を持っていても安心できない、不安や恐れが常にある、だから強欲になってしまうのです。だからイエス様は、強欲(貪欲)に気を付けて警戒しなさいと教えています。私たちがエリの息子たちの強欲な様を見る時、なぜここまで強欲になるのか不思議に思いますが、彼らも恐れや不安によっていつのまにか強欲に支配された、というのが真実ではないでしょうか。即ち、私たちも強欲に関して他人事ではないのです。

 一方、サムエル(18)とハンナは喜んでささげる者(2021)でした。サムエルを神様にささげたハンナに、神様はさらに5人の子どもを与えました。豊かにささげる者は豊かに与えていただけるという聖書の法則が、ここに表されています。

 さて、本日の個所はささげる者と強欲な者との対比が顕著であり、これを繰り返し書くことによって、読者にささげる者か強欲な者か、問いかけているような構造になっています。

では、私たちはどうすれば喜んでささげる者になれるのでしょうか。ザアカイの話(ルカ19110)から、強欲から解放されるために必要なことを学んでいきます。ザアカイは取税人として多くの人から金銭をまきあげていました。ある時ザアカイが住んでいた町にイエス様が来られ、ザアカイはイエス様を見たいと思いました。そこでいちじく桑の木に上りました。いちじく桑の木は巨大で、幹だけで2メートルを超えるものもあるそうです。大嶋重徳先生から昔、こんなことを聞いたことがあります(記憶に間違いがあるかもしれませんが)。ザアカイが上った木は、太くて高い木だった。だから、木の上のザアカイとイエス様はかなり離れていた。これは、ザアカイが感じていたイエス様との心の距離かもしれない。罪人の自覚があるザアカイは、これ以上イエス様に近づけなかった。しかし、イエス様はザアカイの思いとは裏腹に、ザアカイの名前を知っていた。ザアカイはここで主を知りました。そして財産の半分を貧しい人に分けることにしたのです。ザアカイは神と出会い、神の救いを知って、強欲の罪から解放されました。ザアカイはイエス・キリストに出会うことによって、彼のいのちが自分の財産ではなく、この神様に保証されていることを知り、本当の安心を得たのです。だから、彼は貧しい人たちにささげることができたのではないでしょうか。

今日は特に強欲の罪について学びました。エリの息子たちは、強欲の罪に支配されていました。神様へのささげものをすべて自分のものにして、私腹を肥やしていました。しかし、強欲は彼らを幸せにしませんでした。おそらく、彼らはどれだけささげものを奪っても、恐れと不安でいっぱいだったでしょう。これに対し、ハンナは一人息子サムエルをささげました。しかも彼女はささげた後、喜んで神様を賛美しています(2110)。彼女はいのちの根源である主を知っていました。自分の大切な時間、所有物をささげるということは、大変勇気のいることです。そんな時、まず神様の恵みを知ることが大切ではないでしょうか。ザアカイは木に上りました。ハンナは神殿に祈りに行きました。このように、神様の恵みを知ろうとする小さなアクションをしてみましょう。そしてみことばを読むことは、神様の恵みを受ける最も基本的な手段です。ただ、ハンナやザアカイはやりすぎではないか、と思われる方もおられるでしょう。しかし、もし私たちが神の恵みの全貌を知ったなら、彼らと同じようにささげるのではないでしょうか。2000年前、真の神であるイエス様がこの世界に下りてこられたことは、私たちから絶対消えない恵みです。イエス様は私たちの過去、現在、未来の罪のために十字架にかかって死んで下さいました。それを信じる者には、永遠のいのちが与えられます。私たちのいのちは財産にあるのではありません。もしそうなら、財産が増えることで一喜一憂しなければなりません。いのちを唯一与えることができる神様を、私たちは知ったのです。この方に信頼し、強欲から解放され、ささげる者でありたいと思います。

 

天の父なる神様、御名を崇め賛美いたします。救いという決して消えない恵みを、あなたは私たちに与えることができます。主よ、どうぞあなたの恵みを理解して、喜んで神様にささげることができますように助けて下さい。今週も一人一人と共にいて下さって、あなたを信じる喜びで満ち溢れさせて下さい。(2020816日礼拝 武田遣嗣牧師)