神の人の告知 サムエル記第一2章22~36節

【新改訳2017

Ⅰサム

2:22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。

2:23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。

2:24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は【主】の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。

2:25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、【主】に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころだったからである。

2:26 一方、少年サムエルは、【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。

2:27 神の人がエリのところに来て、彼に言った。「【主】はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。

2:28 わたしは、イスラエルの全部族からその家を選んでわたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエルの子らの食物のささげ物をすべて、あなたの父の家に与えた。

2:29 なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。

2:30 それゆえ──イスラエルの神、【主】のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──【主】のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。

2:31 見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはあなたの腕と、あなたの父の家の腕を切り落とす。あなたの家には年長者がいなくなる。

2:32 イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。

2:33 わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。

2:34 あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。

2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。

 

2:36 あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください』と言う。」

十戒は、「わたしのほかに神があってはならない」から始まります。これは、他の九つの命令の基礎となる命令です。この第一戒を本当に守れていれば、他の九戒も守ることができます。例えば七戒には「盗んではならない」と書かれていますが、盗みは所有物や金銭を神とする時に起こります。また「隣人の妻を欲しがる」(九戒)は、異性を神とする時に起こるかもしれません。聖書では真の神以外のものを神とすることを、偶像礼拝と言います。今日は聖書の神様を信じ、救いを求める幸いを共に学びたいと思います。

 エリとその息子たちは祭司でした。彼らは、人からささげ物を受け取って神様にささげる役割を担っていました。ところが、息子たちはささげ物を受け取ると、神様にささげないで自分のものにしていました(216)。エリは一部始終を知っていたのに、彼らを厳しく指導することができませんでした(23,24)。これは、エリにとって息子が神となっていたからです(229)。その結果エリは神様を裏切り、息子たちは自分たちの罪を悔い改めることができませんでした。

 では、私たちが神としてしまいやすいものは何でしょうか。私は人間関係、人に好かれることを神としてしまいやすいです。まわりの人間関係が平和だと、とても安心します。正直、多くの人に好かれたいです。しかしそれにより、コミュニケーションに力が入りすぎて疲れたり、人間関係が偶像になっていることを無意識に隠したいと思って、逆に横柄に振舞ったり、お世話になった人をないがしろにすることもありました。しかし人に好かれたいという思いが偶像になっていると、自分が全く自由でないことに気が付きました。そしてこの罪からの自由は、私たちの心の中心に神様をお迎えした時、与えられるのではないでしょうか(ヨハネ832)。

 私たちが神様を心にお迎えするには、どうしたらよいでしょうか。それは、罪を悔い改めてイエスを信じるということです。罪を悔い改める、これはとても難しいことです。エリは二度も警告を受けながら(29、Ⅰサム3)、悔い改めませんでした。

 ティモシー・J・ケラーというアメリカの牧師は、自分の偶像に気付くための三つの質問について書きました。①他に何も注意をひくことがない時、自然と心が向くものは何か、②何にお金を使っているのか(マタイ46)、③最も自制できない感情は何か。ぜひ皆さんこれらを自問して、神様と共に心を吟味してみて下さい。そして自身の偶像に気付いたら、それを神としてきたことを悔い改めて、真の神様を心にお迎えしましょう。 偶像に打ち勝つ方法は、偶像の代わりに神様に来ていただくことしかありません。イエス様は、偶像から皆さんを自由にする力を持っておられる神様です。

 エリとその息子たちは、最後まで悔い改めることができませんでした。人には、偶像の虜として生きる自由も与えられているのかもしれません。しかし、ここにいる私たちは偶像の虜ではなく、神様の子どもとなることを選びたいと思います。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。未だしたくない悪に惹かれやすく、また罪に苦しんでいる者ですが、イエス様は心砕かれた者の悔い改めを聞き、少しずつ聖化して下さることを期待します。神様を心にお迎えし、神様と共に人生の荒波を乗り越えていくことができますよう助けて下さい。(202096日礼拝 武田遣嗣牧師)