誰が私を救うのか サムエル記4章12~22節

【新改訳2017

Ⅰサム

4:12 一人のベニヤミン人が戦場から走って来て、その日シロに着いた。衣は裂け、頭には土をかぶっていた。

4:13 彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子に座って見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。

4:14 エリがこの泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ」と言うと、男は大急ぎでやって来てエリに知らせた。

4:15 エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。

4:16 男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。

4:17 知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」

4:18 彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた。

4:19 彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近であったが、神の箱が奪われて、しゅうとと夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。

4:20 彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたから」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。

4:21 彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。

 

4:22 彼女は言った。「栄光はイスラエルから去った。神の箱が奪われたから。」

 エリはイスラエルの祭司であり、指導者でした。彼は戦場に持ち出された神の箱が無事に帰ってくることを願って、見張っていました。「見張っていた」ということば(原語)には、「恐れつつ」という意味合いが含まれているそうです。エリは、神の箱がもしペリシテ人に奪われてしまったら、自分の責任になると恐れていたので、びくびくしながら見張っていたのです。この恐れは不信仰から出たものでした。彼は神を恐れず、他のものを非常に恐れていました。私たちも神様から心が離れていると思う時、人間関係や仕事などの行く末を恐れてしまわないでしょうか。しかし私たちには、その行く末すべてを知っておられる神様を恐れることが必要です。神を恐れると言う時、そこには尊敬の意味も入っています。神を恐れ、身を低くして仕える、それは弱くなる道のようですが、実は神以外のものを恐れないという強くなる道ではないでしょうか。

 サムエル記は、エリの目が徐々に悪くなっていく経過を描いています(112,32,415)。文学的表現ですが、エリの視力と信仰心とは関係があると思います。つまり4章の時点で、エリには神様が見えなくなっていました。神様を恐れない、神様が見えないエリには、他のことがどんどん恐ろしくなってきました。そんな中、戦場から逃げてきた男から神の箱が奪われたことを知ります。エリはショックで倒れ、首を折って死んでしまいました。ペリシテ人への恐れ、神の箱を守らなければという恐れが彼を殺してしまったのかもしれません。もしエリが神を恐れ、霊的な目が開かれていれば、もっと良い最期を迎えていたかもしれません。

 また、戦いの敗北によって、神殿と神の箱があった町、シロは衰退していきました。シロは礼拝の中心でしたが、この後シロという地名はサムエル記に出てきません。おそらく、ペリシテ人に破壊されたからだろうという説が有力です。イスラエルは礼拝の場所を失って国家全体の危機に陥ったのでした。

 私たちも、エリのように個人的な危機に立たされることがあります。また、国家全体を覆うような危機に立たされることもあります。私たちはこんな時こそ危機だけでなく、神様を見つめることを忘れてはなりません。神様を見上げ、霊的な目を開き続けることが私たちに平安を与え、恵みに目を向けさせるからです。

 今、私たちはコロナ禍の中で生きています。那珂湊教会では、コロナ禍でも会堂で礼拝を続けることができています。しかし全国の教会を見渡すと、半年間ずっとインターネット礼拝を続けている教会もあります。長年続けてきた奉仕はできないし、礼拝後におしゃべりすることもできません。主がおられるならどうして?と悲痛な叫びを聞きました。一方、インターネット礼拝を通して、みことばの力強さを感じることが増えたという声も聞きました。またオンライン礼拝の普及により、無牧の教会を助けられるのではないかというポジティブな意見もあります。危機の中で神様からの恵みを受け取っている教会の姿に、私は非常に励まされています。私たちも危機の中で神様から恵みを受け取って、生き生きと進む個人、教会でありたいと思います。神様は、私たちに襲い掛かるどんな危機にも勝るお方です。私たちが危機の時代を、それぞれの危機を乗り越えることができますように。

 

 恵み深い天の父なる神様、御名を崇め讃美いたします。私たちには、ついていく羊飼いなるイエス様がおられることを、心から感謝します。様々なことの行く末を考え、不安になるかもしれません。しかし、未来を見通す神様が私たちの神様です。私たちの人生の最終的な責任をとって下さるお方が私たちの神様です。主よ、どうかあなたに信頼して、この一週間を歩んでいくことができますように助けてください。(2020104日礼拝 武田遣嗣牧師)