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サウルを選んだ神 サムエル記第一9章1~10節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 9 ]

9:1 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュはアビエルの子で、アビエルはツェロルの子、ツェロルはベコラテの子、ベコラテはベニヤミン人アフィアハの子であった。彼は有力者であった。

9:2 キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

9:3 あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子サウルに言った。「しもべを一人連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」

9:4 サウルはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、それらは見つからなかった。さらに、シャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いても、見つからなかった。

9:5 二人がツフの地にやって来たとき、サウルは一緒にいたしもべに言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのほうを心配し始めるといけないから。」

9:6 すると、しもべは言った。「ご覧ください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。」

9:7 サウルはしもべに言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」

9:8 しもべは再びサウルに答えた。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げたら、私たちの行く道を教えてくださるでしょう。」

9:9 昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は「さあ、予見者のところへ行こう」とよく言っていた。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

9:10 サウルはしもべに言った。「それはよい。さあ、行こう。」こうして、彼らは神の人のいる町へ行った。

随分久しぶりになってしまいましたが、今日は第一サムエル記からメッセージをします。第一サムエル記8章の終わりまでメッセージしたのですが、改めて第一サムエル8章までの流れを確認してから今日の箇所に移ります。

 かなり遡りますけど、①イスラエルはエジプトで奴隷をしていた民です。しかし彼らは神様に救われ、住む国が与えられました。これが出エジプト記に書かれています。しかし②彼らは自分達の国が与えられると、真の神様ではなく、偶像の神を拝むようになりました。これは士師記に書かれています。この士師記の続きが、サムエル記です。イスラエルの神様への信仰がどん底の状態から、サムエル記は始まります。しかし神様はイスラエルを決して見捨てませんでした。神様は預言者サムエルをイスラエルのリーダーとして立てました。彼によってイスラエルは偶像を捨てて、神様を再び礼拝するようになったのです。

しかし④第一サムエル記8章で、イスラエルは「神様もいいけど、人間の王も必要だ!」と王を求めるようになりました。サムエルはイスラエルの不信仰を嘆きましたが、神様はイスラエルに王を与えることにしたのです。第一サムエル記8章の最後の節を読んでみましょう。

22  主はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」それで、サムエルはイスラエルの人々に「それぞれ自分の町に帰りなさい」と言った。

 サムエル記1章から8章まではサムエルを中心に物語が展開していました。サムエルがどういう経緯で生まれたのか、どのように成長し、イスラエルのリーダーになったのか。そして8章の最後でサムエルが王を立てることになります。

 サムエル中心は8章以降も続きそうですが、実は9章からサムエルではなく、サウルという若者が、物語の中心人物になっていくのです。第一サムエル記91節をお読みします。

ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュはアビエルの子で、アビエルはツェロルの子、ツェロルはベコラテの子、ベコラテはベニヤミン人アフィアハの子であった。彼は有力者であった。

サウルという若者はキシュという人の息子です。そしてイスラエルのベニヤミン族の有力者でした。この有力者とは「土地を所有している階級」であることを意味しています。裕福な家柄なのだろうと推測できますが、サウル自身が921節で自分の家柄について説明しています。

サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 この言葉から推測するに、サウルの家は確かに羊やロバを放牧できるくらいの土地を所有はしているけども、さほど裕福ではなく、名の知れた一族ではなかったのでしょう。

 このサウルがサムエルと出会い、イスラエルの王様になるのです。神様は弱い立場の人を用いて、ご自身の偉大さを明らかにされます。

 さてサウルがサムエルと出会うきっかけとなったのが、3節から始まる「ロバ捜し」です。3節をお読みします。

3  あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子サウルに言った。「しもべを一人連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」

サウルは父親からいなくなったロバを捜すように頼まれました。このことがサムエルに出会うきっかけとなります。サウルは家の周辺だけではなく、徹底的に雌ロバを探しました。4節を見ると、彼が非常に広大な範囲を探したことが分かります。しかし見つかりません。彼は諦めて帰ろうとしました。しかしサウルと一緒についてきたしもべがサウルにある提案をします。6節をお読みします。

6  すると、しもべは言った。「ご覧ください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。」

 しもべは神の人に会いにいって、行くべき道を聞きましょうとサウルに提案します。この神の人とは「サムエル」のことです。あえて「神の人」と書いてあるのは、サウルとしもべがサムエル個人について深く知らなかったからでしょう。サウルは、サムエルに会うことにやや否定的だったと思います。78節をお読みします。

7  サウルはしもべに言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」 8  しもべは再びサウルに答えた。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げたら、私たちの行く道を教えてくださるでしょう。」

7節でサウルはしもべに、「贈り物もなしに、神の人へ会いに行けない」と言いました。しかしなんと神の人が銀をもっていました。8節「私の手に四分の一シェケルの銀があります」ここを聖書が元々書かれた原語から直訳すると、「私の手に四分の一シェケルの銀が見つけられた」つまり、しもべはここで自分がたまたま銀をもっていたと主張しているのです。

 ここまでの「ロバ捜し」の記事で強調されていることは「神の導き」です。サウルはロバ捜しを諦めようとしましたが、しもべは神の人のところへ行こうと提案しました。サウルは贈り物なしに神の人のところへはいけないと言いましたが、しもべは銀をたまたま持っていました。サムエルの元へ行くことに、サウルは否定的です。しかし神はしもべを用いて、サウルをサムエルの元に導いていったのです。1112節にも神の導きを感じます。1112節をお読みします。

11  彼らがその町への坂道を上って行くと、水を汲みに出て来た娘たちに出会った。彼らは「予見者はここにおられますか」と尋ねた。 12  すると娘たちは答えて言った。「はい。この先におられます。さあ、急いでください。今日、町に来られました。今日、高き所で民のためにいけにえをお献げになりますから。

 サウルが町に着くと、なんとサムエルが今日この町に到着したというのです。サムエルは幾つかの町を巡回していました。この町にいるとは限らなかったのですがベストタイミングで、この町を訪れていました。また町の外で水を汲んでいた女性達は「急いで」町に向かうようにサウルに勧めています。それによってサウルはサムエルと出会うことができたのです。14節をお読みします。

14  彼らが町へ上って行き、町に入りかかったとき、ちょうどサムエルが、高き所に上ろうとして彼らの方に向かって出て来た。

 「サウルとサムエルの出会い」については、次回と説教でお話しすることにします。今日読んだこの箇所から私達が教えられるのは、神様の摂理です。摂理とは、この世界に存在しているもの全ては①神様が維持しており、②神の目的を達成するために用いられているということです。この世界で起こる悲しいことは、基本的に人間の罪がその根本的な原因です。すべての人が罪をもっているこの世界では悲しいこと、苦しいことは必ず起こります。もう神はいないのではないか、と思うほどです。しかし今日の箇所が私達に教えているのは、神様は確かにおられ、またご自身の目的に向かって、私達を、歴史を動かしているということです。

 今日の箇所ではサウルは「ロバを探しにいきました」。彼の目的はあくまでをロバを見つけることです。しかし神の目的は「サウルがサムエルと出会う」でした。そして「サウルのしもべや、途中で出会った女性達、たまたましもべがもっていた銀」を用いて、その目的を達成されたのです。私達の人生も自分の思い通りにいかなかったかもしれませんが、そこには神様の計画があったのです。皆さんの今までの人生、そして今日教会に来ていることまで、それは全て偶然ではなく、神様の導きがありました。私達の人生のやる気を失わせ、悲しみに満たすのは、私達の人生が無秩序で偶然の産物であるという考え方です。しかし神様のご計画があるという信仰は、私達に生きる力を与えるのではないでしょうか。

 U-30という30歳以下の牧師研修を去年、一昨年と受けていました。その研修で一番最初に学んだことは、個人の歴史、教会の歴史を振り返ることでした。普段は思い出すこともない幼少期からの記憶を頭の奥から引っ張りだして、付箋に書き出し、並べていきました。とっても些細な誰かの一言で傷つき、また励まされていることに気が付きました。また自分の人生における神様の計画の一端の一端が見えたような気が致しました。自分が偶然と無秩序ではなく、神の摂理の中にある、神のご計画の中にあることを覚え感謝しました。

 コロナウイルスのことや身の回りに起こっている悲しい出来事を、私達は見ないわけにはいきません。そうしないと生活できません。しかしそのような環境に身を浸し過ぎると、世界は灰色になっていき、「生きいてもどうしようもない」と思ったり、「私の人生は所詮偶然、所詮無秩序だと」思ったりすることもありえます。本日の日曜日、私達一人一人は神様の摂理の中に居ることを心に留めましょう。神様はこの世界が始まる前から皆さんのことを知っていました。そしてこの時代の、この町に、この人を置こうと計画されました。神様の摂理を信じ、神様が皆さんに立てておられる計画に静かに思い馳せてから、またこの世の戦いに戻っていきたいと思います。一言お祈りします。

 

 

「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ」天の父なる神様。サウルが周りの人々の影響を受けながら、あなたに導かれた話を聞きました。主はここにいる一人一人も導いてくださることを信じます。それぞれ自分の計画がありますが、「神様はどう考えておられるのか?」御心を聖書から尋ね求めることを忘れないで歩んでいくことができますように。感謝してイエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン。