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御心がなりますように サムエル記第一9章15~27節

【新改訳2017】

Ⅰサム

9:15 【主】は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。

9:16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」

9:17 サムエルがサウルを見るやいなや、【主】は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

9:18 サウルは、門の中でサムエルに近づいて、言った。「予見者の家はどこですか。教えてください。」

9:19 サムエルはサウルに答えた。「私が予見者です。私より先に高き所に上りなさい。今日、あなたがたは私と一緒に食事をするのです。明日の朝、私があなたを送ります。あなたの心にあるすべてのことについて、話しましょう。

9:20 三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないようにしてください。見つかっていますから。全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。」

9:21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

9:22 サムエルはサウルとそのしもべを広間に連れて来て、三十人ほどの招かれた人たちの上座に着かせた。

9:23 サムエルは料理人に、「取っておくようにと渡しておいた、ごちそうを出しなさい」と言った。

9:24 料理人は、もも肉とその上にある部分を取り出し、サウルの前に置いた。サムエルは言った。「これはあなたのために取っておいたものです。あなたの前に置いて、食べてください。その肉は、私が民を招いたと言って、この定められた時のため、あなたのために取り分けておいたものですから。」その日、サウルはサムエルと一緒に食事をした。

9:25 彼らは高き所から町に下って来た。それからサムエルはサウルと屋上で話をした。

9:26 彼らは朝早く起きた。夜が明けかかると、サムエルは、屋上にいるサウルに叫んだ。「起きてください。あなたを送りましょう。」サウルは起きて、サムエルと二人で外に出た。

9:27 二人が町外れへと下っていたとき、サムエルがサウルに「しもべに、私たちより先に行くように言ってください」と言ったので、しもべは先に行った。「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから

前回の復習

前回の説教では神の摂理について学びました。摂理とは①神様が私達とこの世界を維持しており、②神の目的を達成するために用いられるということです。前回は、サウルという青年が「ロバを探す」話を聞きました。青年サウルが旅に出た目的は「ロバを探すこと」です。しかし神の目的は違いました。「サウルがサムエルと出会う」ことだったのです。

結局ロバは見つかりませんでしたが、サウルはサムエルと会うことができました。サウルは神の目的に向かって歩んでいたのです。

前回の説教の後、ある方が感想を話してくれました。「自分の人生が失敗だったのではないかという感覚があったけど、神様の目的に導かれていたと考えるなら、人生を肯定的に捉えることができそうです」。本当にそうだと思いました。皆さんは人生において、正しい選択をしてきたという自負があるでしょうか。私は自分で振り返って到底そう思えません。「あの時あの選択していたら、今はこうなっていたかもしれない」、そういう後悔で心が一杯になる時があります。しかし人生の選択を間違え、理想の自分になれなかったと思っていたとしても、神様は私達の人生を導いてこられたのです。神様はこう仰います。「あなたは自分の人生を失敗だと思っているかもしれない。しかし私はあなたの人生を、わたしの目的によって導いてきたのだ」。神様の摂理を受け入れることはなんという大きな恵みでしょうか。今日も特に摂理について学びましょう。神様はこの世界を治めておられ、この世界を神様の目的に向かって前進させているのです。

 

不確かでも、一歩踏み出す

15  主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。 16  「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」

 サムエルは当時のイスラエルの指導者です。彼はサウルと会う前日、神様から御言葉をいただきました。「ある人をあなたのところに遣わすから、イスラエルの王としなさい」。16節の「ある人」とは誰なのか?サムエルには、神様のご計画の全てが明らかにされていません。神の目的は大きな視点でみると、この世界を罪から解放し、神を信じる者を天の御国に導くことです。アダムとエバによって、この世界に罪が入りました。その罪が完全に取り除かれ、もはや悲しみも、苦しみも、叫びもない世界が造られます。しかしその目的のために、私達がどのように用いられるかは、はっきりしていないことが多いです。

しかしサムエルは神のご計画がはっきり分からないままでも、食事の席を用意して、「ある人」(サウルのこと)を迎え入れる準備をするのです。神様の目的と計画は、私達に示される時、明らかではないことが多いです。ここでのサムエルのように、「すべて明らかではないけれど、行動に移さなければならないことがほとんどです」旧約聖書に登場するエステルも、「もしかしたらこの時のためかもしれない」という不確かさの中で、命がけの行動に出ました。

「御言葉が与えられていないから行動できない」、「神の目的が分からないから行動できない」という声もよく聞きます。しかし「これは神の御心である」、と確信をもって行動できることは人生において少ないかもしれません。「もしかしたらこれが神の目的かもしれない」という不確かさの中で選択を迫られることがほとんどです。しかしイエス様の弟子ペテロは、イエス様を信じて、あのガリラヤ湖の上に足をつけました。すると彼は湖の上を歩くことができました。信仰によって一歩踏み出すことで、主は私達をご自身の目的のために用いてくださるのではないでしょうか。

 

御心がなりますように

20  三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないようにしてください。見つかっていますから。全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。」

サムエルはサウルに言いました。「もうロバ探しは気にしないでください!」。サウルは「ロバ探し」のために、サムエルのいる町までやってきました。しかしそれは人間の目的でした。神様の大いなる目的が、サウルに突如、明らかにされるのです。20節「全イスラエルの思い」とは、「王様を求める思い」のことです。イスラエルの民達は皆王様を求めていて、その王こそサウルだったのです。しかしサウルには自信がありませんでした。

21  サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 イスラエルには十二の部族があります。その内、サウルはベニヤミン族に属していました。今サムエル記を読んでいますが、このサムエル記は士師記の続きです。ベニヤミン族は士師記の時代、二万五千人が戦争で命を落としました。

 その日、ベニヤミンの中で倒れた者は剣を使う者たち合わせて二万五千人で、彼らはみな、力ある者たちであった(士師2046)。

元々大きな部族ではありませんが、ここでさらに小さく、弱い民族となって、このサムエル記の時代につながっているのです。ですからサウルの21節の言葉はもっともです。サウルは考えました。「ベニヤミン族から王が選ばれない方が良い、まして自分ではない方が良い」と。

しかしこれはサウルの判断でした。サウルは「自分は適任ではない」という自分の判断を、一度横に置いて、神の御心は何かを考える必要がありました。私達は「自分の目的」、「自分の判断」ではなく、「神の御心を求めて」歩んでいるでしょうか。

 今月の御言葉の光の通読箇所は民数記です。民数記はイスラエルがエジプトを脱出して、約束の地へ向かう過程の話です。民数記10章では、イスラエルが宿営をたたんで、約束の地へ前進する時、いつもラッパを吹きならしました。「それは神の前に覚えられるためだった」と書かれていました。順調な時も、上手くいかない時も、イスラエルはラッパを鳴らして進んでいきました。人は物事が順調な時は、神の計画など考えないで、自分の判断で突き進んでしまいがちです。しかし私達は「御心がなりますように」と立ち止まって祈り、自分の判断ではなく、御心の行い・言葉を選択しようと必要があると思います。

 

まとめ

今日の説教をまとめます。私達が神様の目的に対して適切に応答するためには、「立ち止まること」と「勇気ある行動」の両面が必要です。

自分の判断で突き進むのではなく、立ち止まり、御心を探り求める時間を持ちましょう。また全て明らかではないのに、時に勇気ある行動を主に求められる時があります。私達を守り、私達は目的に従って導く神様に信頼して一歩踏み出す者でありましょう。

 

また今日は総会があります。今年度の教会の目標は、「子供達や教会に不慣れの方に配慮した礼拝式」です。このようなコロナの状況で新しい目標に向かって進むことはとても勇気のいることだと思います。「コロナ前に戻るのではなく、コロナ後にある神様の目的に前進しよう」という言葉を聞くことがあります。私達はどうしても元に戻ることを考えます。しかし私達は時に立ち止まって祈り、時に勇気をもって前進していきましょう。(2021年1月24日礼拝 武田遣嗣牧師)