【新改訳2017】
Ⅰサム
[ 10 ]
10:1 サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「【主】が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。
10:2 今日、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、二人の人に会うでしょう。彼らはあなたに、『捜し歩いておられた雌ろばは見つかりました。あなたの父上は、雌ろばのことはどうでもよくなり、息子のためにどうしたらよいのだろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。
10:3 そこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く三人の人に会います。一人は子やぎを三匹持ち、一人は円形パンを三つ持ち、一人はぶどう酒の皮袋を一つ持っています。
10:4 彼らはあなたにあいさつをして、あなたにパンを二つくれます。彼らの手から受け取りなさい。
10:5 それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町に入るとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。
10:6 【主】の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。
10:7 これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。
10:8 私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」
10:9 サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。
10:10 彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。
10:11 以前からサウルを知っている人たちはみな、彼が預言者たちと一緒に預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルも預言者の一人なのか。」
10:12 そこにいた一人も、これに応じて、「彼らの父はだれだろう」と言った。こういうわけで、「サウルも預言者の一人なのか」ということが、語りぐさになった。
10:13 サウルは預言を終えて、高き所に帰って来た。
10:14 サウルのおじは、彼とそのしもべに言った。「どこに行っていたのか。」サウルは言った。「雌ろばを捜しにです。どこにもいないと分かったので、サムエルのところに行って来ました。」
10:15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」
10:16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」しかし、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。
自信のないサウル
本日の箇所は「サウルの油注ぎ」の箇所です。1節をご覧ください。
サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。
サウルという若い青年がおりました。彼は頭に油注ぎを受けています。これは彼が王様になるための儀式です。しかしサウルは油を注がれながらも、自分が王様になることを未だに信じられずにいました。それもそのはず、彼はつい昨日、自分が王になることを知らされたからです。1節終わり、イスラエルのリーダー、サムエルがサウルに「あなたに油を注がれたのではありませんか?」と問いかけています。これはサウルに「王になる」自覚をもってという思いの現れなのです。
サウルは自分に自信のない人でした。前回の箇所9章21節でもこういっています。サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」
神様は自信のない、サウルの心をよくご存じでした。神様は無理やりサウルを王にしようとするのではなく、サウルに三つのしるしを与えて、徐々に王になる使命を受け入れられるようにされたのです。
「王にはなれない」「自信がない」そんな正直な思いに寄り添い、導く神様について今日は学びましょう。
三つのしるし
第一サムエル記10章2節をお読みします。
今日、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、二人の人に会うでしょう。彼らはあなたに、『捜し歩いておられた雌ろばは見つかりました。あなたの父上は、雌ろばのことはどうでもよくなり、息子のためにどうしたらよいのだろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます』と言うでしょう。
2節以降でサウルに三つのしるしが起こると予言されています。少し先の9節を見ると、「これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった」とありますから、三つのしるしはサウルに確かに起こり、サウルは自分が王になることを自覚し、その使命を受け入れるようになるのです。一つ目のしるしは2節、このしるしを一言で言うなら「雌ロバが見つかること」です。
サウルは10章2節より前に、サムエルから雌ロバが見つかったことを聞いていました。9章20節に書かれています。
三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないようにしてください。見つかっていますから。全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。」
サウルは10章2節で改めて、雌ロバが見つかったことを聞きこう思ったでしょう。「サムエルの言葉は真実だったのだ!やはり私は王になるのかもしれない」これはサムエルが王となる一つ目のしるしでした。
二つ目のしるしは、3節に書かれています。
3 そこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く三人の人に会います。一人は子やぎを三匹持ち、一人は円形パンを三つ持ち、一人はぶどう酒の皮袋を一つ持っています。4 彼らはあなたにあいさつをして、あなたにパンを二つくれます。彼らの手から受け取りなさい。
二つ目のしるしは「三人の人からパンをもらうこと」です。この三人は神に礼拝を捧げるために、ベテルという町に行く途中でした。ですから彼らがサウルに渡したパンは、神様への捧げ物です。旧約聖書レビ記によると、捧げ物のパン、神様に聖められた祭司しか食べることができません。しかしサウルが油注ぎによって、祭司と同じように聖別されていたから、このパンを受け取ることができたのです。サウルは「あの油注ぎは本物で、やはり私は王となるのかもしれない」と考えたことでしょう。これが二つ目のしるしでした。三つ目のしるしは彼が故郷の町ギブアに着いたところで起こります。
5 それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町に入るとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。 6 主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。
三つ目のしるしは、サウルが自分の故郷ギブアで、預言したことです。預言とは神様から御言葉をいただいて、それを人々に伝えることです。その力が聖霊によって、突如彼に備わることになります。神様はサウルに、以上の三つのしるし与えて、サウルが自分の使命をはっきり知ることができるようにしたのです。
人の心を大切にされる神
神様は無理やりサウルを王様にするのではなくて、時間をかけて、しるしを与えて、サウルが王になることを心から受け入れられるようにしました。神様は私達の心や意思を捻じ曲げて従わせようとはなさらないのです。私達の個性、思いを用いたいと願っています。
私達の今読んでいる聖書は人の個性、思い、経験」を用いて書かれました。ある宗教の正典、聖書のような本は、人間が恍惚状態で筆をとり、神の操り人形になって書かれたとされています。
聖書も筆をとったのは人間ですが、それは恍惚状態で書かれたものかと言えばそうではありません。たとえばルカ1:3を見ると、ルカがはっきりとした意識をもって、ルカの福音書を書いていることが分かります。
こう書かれています。私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
他にもパウロ書簡では「○○さんによろしく」など、とても人が無意識の中で書いたようには思えない言葉があります。聖書を書く時ぐらい、人間を無意識の中に放り込んで、自分の言葉で書けば良いものの、聖書の御言葉は神の言葉でありながら、人の著者の人生や個性、心がにじみ出ています。神様は私達を機械のように、奴隷のように絶対に扱いたくはないのです。
私達は恐れず神様に自分の思いを祈ってみましょう。神様は私達の思いを聞き、ゆっくりと神様の御心に近づけてくださいます。
新しい人に変えられること
7節の最後をご覧ください。サウルが新しい人に変えられると書かれています。しかし彼の臆病で自信のない性格が変えられたのかというとそうではありません。例えば彼はこの後、王として即位しますが、怖くなって、荷物の間に隠れてしまいます(22節)。
しかしこの臆病であるというネガティブな性質さえも、慎重に物事進めていく等の強みとして神様は用いてくださいます。私達自身の中にある私達が嫌いな性質さえも、神は愛し、用いてくださるお方です。
今日は二つのことに感謝して、説教を閉じましょう。一つ目は「私達の思いを聞き、少しずつ私達を御心に導いてくださることに感謝しましょう。神様は私達を強制的に、大きな声で服従させるのではなく、静かにご自身の御心を私達に語りかけてくださいます。静かに神様と対話する時間をもっているでしょうか。二つ目、私達の思い、個性を用いてくださる神様に感謝しましょう、そして自分が何を捧げられるのかを考え、この神様に仕えていきましょう。一言お祈りします。(2021年2月7日礼拝 武田遣嗣牧師)
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