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弱い者を立たせる神 第一サムエル記14章1~15節

【新改訳2017】

Ⅰサム

14:1 そのようなある日、サウルの息子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」しかし、ヨナタンは父にそのことを知らせなかった。

14:2 サウルはギブアの外れで、ミグロンにある、ざくろの木の下に座っていた。彼とともにいた兵は約六百人であった。

14:3 アヒヤは、エポデを身に着けていた。アヒヤはアヒトブの子で、アヒトブはイ・カボデの兄弟、イ・カボデはピネハスの子、ピネハスは、シロで【主】の祭司であったエリの子である。兵たちは、ヨナタンが出て行ったことを知らなかった。

14:4 ヨナタンがペリシテ人の先陣の側に越えて行こうとしていた山峡には、手前側にも、向こう側にも、切り立った岩があって、一方の側の名はボツェツ、もう一方の側の名はセンネといった。

14:5 一方の岩は北側、ミクマスの側にあり、もう一方の岩は南側、ゲバの側にそそり立っていた。

14:6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、【主】がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、【主】がお救いになるのを妨げるものは何もない。」

14:7 道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」

14:8 ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。

14:9 もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。

14:10 しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。【主】が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」

14:11 二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」

14:12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。【主】がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」

14:13 ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。

14:14 ヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約二十人で、一ツェメドのおおよそ半分の広さの場所で行われた。

14:15 そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

 イスラエルにとって、強国ペリシテとの戦況は絶望的でした。そのような中、一人立ち上がったのが、サウル王の息子ヨナタンです。ヨナタンは父サウルには知らせないで、道具持ちの若者とたった二人で、ペリシテ陣営を攻めようとしました(1)。第一サムエル記を読む時、心に留めたいのは、サウルとヨナタン、サウルとダビデが対照的に描かれていることです。この時サウルは偉大な神様を信頼できず、ペリシテ人の強さ、人数におびえ何もできなくなっていました。しかしヨナタンは神様の偉大さを強く信じ、たった一人で行動を起こしました(6)。ヨナタンはたとえ少人数であっても、偉大な神様が自分達を救ってくださると信じていたのです。

 ところで、聖書の神様を研究する学問「神学」において、神様の偉大さを示す5つの言葉があります。霊、いのち、無限性、不変性。人格的存在です。まず神様は霊なるお方です。私達の体は物質でできていますが、神様は100%霊なるお方です。形ある者はいずれ衰えますが、神様は決して衰えることはありません。次に神様はいのちの根源なるお方です。春の植物に命を与えるのもこの方です。そして私達に永遠のいのちを与えることができます。無限性。神様は無限の力、知恵を持っておられます。不変性。神様はいつまでも変わりません。人格的存在。神様はただ力が強い、知識が豊富なだけではなく、神様は最高の人格を持っておられる良い父親のようなお方です。これが神様の偉大さを表す5つの要素です。ヨナタンが何万というペリシテに向かっていった背景には、自分には偉大な神がついていると確信があったからでした。どれだけ現実的に、リアルにこの神様の偉大さを私達は信じているでしょうか。

 しかし、どれだけ神様が偉大だとしても、この箇所のヨナタンの行動は無謀ではないかと考える人もおられるかもしれません。しかしヨナタンは非常に冷静で、また敵を討ち取る策略を練っていました(4)。ペリシテ人とヨナタンのいた場所の間には山峡がありました。ヨナタンから見て、手前側の山峡には切り立った岩があり、その名はボツェフです。これは「輝く」という意味で、熱い日差しを受けるからそう呼ばれていました。奥側の名はセンネ。これは「刺のある」という意味で、おそらくその岩が刺のようにゴツゴツしていためだと思われます。この山峡を渡ってペリシテ人のところに行くのは、非常に困難です。ペリシテ人も「まさかこの山峡を通って、敵が来ることはない」と高を括っていたことでしょう。しかしヨナタンはあえてこの山峡を越えることで、ペリシテ陣営を混乱に陥れようとしていました。もし大人数で山峡を越えるとしたら、その途中でペリシテ陣営に見つかり、逆に不利になってしまうかもしれません。ヨナタンは少人数だからこそ活きる奇襲を考えていたのです。

ヨナタンがペリシテ人と戦った「場所」にも戦略性を感じます(13)。一ツェメドというのは縦横50メートルくらいの場所です。その半分ですから、縦横25メートルの場所。おそらくこの会堂より少し大きいくらいの場所を、ヨナタンは戦いに選びました。広い場所なら一気に多数を相手しなければなりません。たちまち囲まれてしまうでしょう。しかしヨナタンは有利に戦える場所を選んで戦いました。ヨナタンの戦い方は、少人数には少人数の戦い方があることを教えてくれます。私達はお金がない。人材がいないといって、神様からの使命を諦めてしまうことはないでしょうか。

神様は弱い私達を用いてくださるお方です(Ⅱコリ47)。私達は「土の器」です。机から落とすとすぐにヒビが入ってしまうような弱さをもっています。弱さがあり、罪があります。クリスチャンは、自分が土の器であることを認めた者のことです。しかし神はそれを認めることができた者に働きます。ヨナタンはペリシテ人よりも、自分が弱い立場であることをもちろん自覚していました。しかし諦めません。神様がこの弱い私を使って何かなされるはずだ。そして自分の頭で考え、策略を練ったのです。神様はそんなヨナタンを用いられました。

今週は二つのことを自分に問いかけつつ歩んでいきましょう。。

①神が偉大であることを信じているか?私達が礼拝の場所だけなく、生活のあらゆる場所で偉大な神様が働かれることを信じるためにはどうすれば良いでしょう。

②本当に解決の糸口はないのか?自分の弱さに目を向け、自信をなくし、解決を先延ばしにしてきたことはないでしょうか。今日は不可能を可能にする神様の偉大さについて教えられました。皆さんそれぞれ対峙しているペリシテ人のような敵があると思います。しかしそれよりも強い神様が共にいることを信じて、今週一週間を歩んでいきたいと思います。一言お祈りします。

 

 

 天の父なる神様。今日はあなたの偉大さについて学びました。私達が今週、生活のあらゆる面で、偉大な神様を感じることができるようにしてください。私達はそれぞれ困難を通っていますが、神様は試練の時脱出の道をも備えてくださっています。必ずあるその脱出の糸口を神様と共に探していく、そのような一週間を過ごさせてください。(2021411日礼拝 武田遣嗣牧師)