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働くことの意味 創世記1章26節、エペソ人への手紙4章28節

【新改訳2017】

創 1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

 

エペ 4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

 

 私は、渋沢栄一から働くということについて、非常に大切なことを教えられたのではないかと思っています。午前中は聖書から働くことの意味を学びたいと考えています。

 まず私たちは、人が働く者としてつくられたことを、大事に受け止めたいと思います。創世記12628には、「支配するように、従えよ、支配せよ」ということばが出てきます。神様は、神様がつくられた世界に人を置かれ、地や生き物を従えるように、支配するように命じられました。横暴な感じがするかもしれませんが、そうではありません。それは神様が今も生きて働いておられ、その代理として世界を管理するという崇高な責任を、人が持っていることを表しているのです(創215)。人には働くという重要な使命があると同時に、神様も大いに働いておられ、私たちの世界を守っておられます。

 人間は神様と比べようがないほどの小さな存在ですが、「神のかたち」を持っています。つまり、私たちは知恵、理性、義を求め、聖なるものとして神を求める、また三位一体の神様が父、子、聖霊の愛の交わりの中に存在しているように、単独で生きるのではなく愛し合う関係の中で生きるようにつくられています。また、人は自由なる者として、自由をもって働くようにつくられました。

しかし、人は与えられた自由をもって神に従うのではなく、神に背いてしまい、その結果、刑罰が宣告されました(創3)。罪を犯し、神との関係が壊れた結果、労働に苦痛が伴うようになったのです。私たちが知っている労働は、それを帯びています。

けれども、働くことから全ての祝福が奪われたわけではありません。働くこと(労働)がなければ社会は維持されないので、労働は大いに役立っているのです。ただそこに様々な問題があります。エデンには働くということと、安息とが共にありました。六日目につくられた人が最初にしたことは、神の安息を共にすることでした。しかしこの安息が失われただけでなく、むさぼりが労働の中に入ってきてしまいました。収穫を奪い取る略奪、貧富の格差等、労働に伴う様々な問題が生ずるようになりました。

そもそも人間は神様との関係が壊れると、自分との関係、他人との関係が壊れてしまいます。自分が分からない、自分や他人を受け入れられない、許せない、という不安が深いものです。働く意味を見出せなかったり、人間関係に悩むことがあるかもしれません。しかしそんな人間に救いが与えられました。人間の根本的な課題をご存じの方が、ひとり子イエス・キリストをそういう人間の一人として遣わして下さったのです。そして人間が帯びている神様のさばきすべてを、それを受ける必要が全くない方がお受け下さった、キリストの十字架とは、そういうものです。さらに、私たちが救われたということは勿論、魂に平安を得た、永遠のいのちにつなぎ合わされたということなのですが、私たちが本当の働きを回復していく、働く意味を理解して、感謝をもって働くことができるということです。神様が人に与えられた「支配する、治める、従える、管理する」働きが戻ってくるのです。私たちはゆるされたことを本当に知る時に、人をゆるす者になります。自分は価値のない者だと思っていたけれど、自分が「わたし(神様)の目には高価で貴い」と言って下さる者だとわかった時に、自分と和解することができるし、そんな風に神様が一人一人を見ている、誰もが「神のかたち」を持っているのだという見方が回復してきます。

私たちは仕事と言うと、お金が返ってくると考えます。労働、奉仕、ボランティアには線引きがありますよね。これは、私たちが生きている時代の特徴です。しかし聖書のことばで言うと、これらは全て「働き」であり、被造世界を管理していると言えるでしょう。「わざ」(創23)ということばは、神の働きにも人の働きにも使われています。「働く」(ヨハネ517。神様が働く、イエス様が働く)、「仕事」(使徒183、パウロが働く)、「働き」(ピリピ230)には同じことばが使われています。単純にお金を得るのが仕事、それ以外はボランティア、奉仕と分けすぎるのが現代人の特徴だと思います。東京基督教大学では、今182名の学生がいて。その四分の一が留学生であり、皆献身を志すクリスチャンです。ここで言う献身とは牧師になるだけではなく、キリストに献身して色々な仕事をする、神様がつくられた世界を管理していく働きをすることです。

最後に、一つ大事なことをお話ししたいと思います。それは働きがむさぼりではなく、与えるものになるということです(使徒203335)。エペソ428を見ると、盗みをしている人たちが教会にもいたのでしょう。パウロは、自分の食い扶持を稼ぐだけでなく、他の人のためにも働く者になりなさいと言っています。私は、これは大きな内容を持っていると思います。人間が罪を犯した時に、神様から与えられているものを盗み取るようになってしまった、そういう生き方が身についてしまったのではないでしょうか。しかし、互いに与え合っていく働き方が、新約聖書によって示されていると思います。パウロにとって働くことは自分のためだけではなく、ともにいる人たちのためでもありました。労働をしてささげ物をする、感謝をすることは、労働が回復していくしるしの一つです。国際的なNGO、オックスファムが2020年のラオス会議に合わせて発表した報告書の中で、世界の富裕層の上位2100人の資産が、世界の総人口6割にあたる46億人分の資産を上回ると発表しました。それは神様がみこころとされる世界ではありません。得たものの十分の一をおささげする、分かち合いとして貧しい人たちを助けていく、得たものをささげることを通し互いに支えあっていくことが実現するなら、世界の貧困問題は解決するでしょう。人の救い、世界の救いと回復を神様は願っておられます。私たちはそこに向かっていく働きをしていきたいと思います。

主イエスは「受けるよりも与える方が幸いである」と仰り、そして十字架にかかられました。このことを私たちは深く受け止めたいと思います。

 

父なる神様、今日もあなたが私たちの真中にお立ちになり、生きて導いて下さる方であることをお示し下さり、感謝をいたします。私たちは今、イエス・キリストのことばをいただいて、それぞれの働きに出ていこうとしています。救いに与かった一人一人の働きが神様によって振り返られて、食べるにも飲むにも、すべてのことにおいて神の栄光を現す者となることができますように、今週一週間の一つ一つの歩みの中で、そのことを確かめさせて下さい。そしてそれが証となって、この地域においてイエス・キリストの福音の種が育っていき、働くということの回復が広がっていきますようにお願いをいたします。(2021620日礼拝 山口陽一牧師)