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三人の友 ヨブ記2章11~13節

新改訳2017 サブ聖書ウインドウ No.1

ヨブ

2:11 さて、ヨブの三人の友が、ヨブに降りかかったこれらすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分のところから訪ねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに同情し、慰めようと、互いに打ち合わせて来た。

2:12 彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられなかった。彼らは声をあげて泣き、それぞれ自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。

2:13 彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。

 聖書に登場する「成功した人物」というと、すぐ思いつくのはダビデです。羊飼いの少年であった彼は将軍となり、王となってイスラエルの国を確立していきました。イスラエルの人にとって、ダビデは目標とする王だったと言えます。ところが、彼の家庭生活は上手くいきませんでした。ダビデは当時の政治事情に関係した結婚(サウルの娘と結婚)から始まり、バテシェバとの事件、息子アブシャロムの反乱といった心を痛める出来事の連続の中に置かれました。

 ダビデの息子ソロモンは、当時の世界で最も豊かになった人です。最も賢く、彼の知恵を聞きに、周囲の国から人々が押し寄せて来たような人物でした。しかし彼には、ヨナタンのような親友はいなかったのではないかと思います。

 さて、ヨブは財産と子どもに恵まれ、人格的にもすぐれていました。ところが、持っているものを一度に失ってしまいました。それも彼の責任ではなく、サタンの企みによるのでした。けれども、神様はヨブに三人の友を残されました。彼らの助言は的を得ていなかったのですが、会話ができたことはヨブにとって有益でした。友人たちに反論することを通して、ヨブは神様の答えに近づくのです。すべてを失ったと思う時でも。神様は必ず希望を残されます。前に進む方法を備えて下さっているのです。

 三人の友はそれぞれ違うところからタイミングを合わせ、待ち合わせてヨブのところに来たのでしょう。孔子は「友あり 遠方より来たる また楽しからずや」と言いましたが、普段会えないくらい遠くの地に友人がいるというだけで、人生が豊かになるものです。久しぶりに那珂湊に来ましたが、私は那珂湊教会を覚える度に皆さんが私のことを祈って下さっているに違いないと思い、心が温かくなります。113日にリーベンゼラ70周年記念のイベントがありますが、遥かドイツの地でも私たちのことを覚え、祈って下さっています。遠くにいるけれど、ヨブの悲劇を知って慰めようと友がやって来た、それはヨブにとって大きな慰めになったはずです。私たちもまた、そのような者になりたいと思います。

 また、彼らはヨブに会う前に同情したと書かれています(11)。ヨブは3章から本音を表し始めます。悲しみや苦しみを同じくすることができる友人だとわかっているからこそ、ヨブは本音を言い出せたのでしょう。私たちもまた、友人の痛みに同情する者でありたいと思います。

 三人の友はヨブの実際の姿を見ると、言葉を失ってしまいます。子どもと事業を失ったばかりでなく、本人も皮膚病にかかり、灰の中に座り込んでいたのです。彼らは七日七夜黙ってヨブのそばに座り続けました(1213)。彼らはヨブと同じ姿になろうとしたのです。彼らは無力でした。ヨブに元のように事業をさせることはできません。三人が三分の一ずつ出して事業を再開するといった具体的な対策を出せれば、少しは何かを成し遂げたと言えるでしょう。でもヨブの財産は、三人の財産よりはるかに多かったのです。ヨブの子どもが亡くなった時、じゃあ子どもたちを残すよとは言えません。ヨブの病を代わってやることもできません。しかし彼らは、彼らのできる範囲で同じ苦しみに遭い、同じ姿になり、傍に寄り添い続けました。

 3章には、ヨブは自分の生まれた日をのろったと記されています。八木重吉の詩の中に、「ぐさり! やって みたし 人を ころさば こころよからん」ということばがあります。クリスチャンの彼が本当にこのように思ったことがある、それを文字として公表したことに驚きました。それは彼が本当に謙遜で、自分の真実の暗闇を見ることができ、それを表に出し得る人物だったからでしょう。私たちの心の中にも、暗黒の部分がないでしょうか。私たちが一度心の奥底にたどり着いて、その暗闇を外に告白することができたら解決になります。多くの場合、私たちはたった一人の祈りの場で神様に告白します。その時、私たちは神様のお取り扱いを受け取り、整えられるでしょう。ヨブは言葉に出せるようになりました。すべてを失い、妻の言葉も心に届かず、友人たちも何も成しえない、でもそこに友人がいるという時、彼は語り出すことができました。ハンナという女性は、苦しみの中にいましたが神殿の中で祈り続け、祭司エリにとがめられた時、「心を注ぎだしていたのです」と言いました。自分の心にある夫への不満、もう一人の妻に対する苛立ちなど全てを神様の前で祈りました。祈った後、彼女の顔はもはや以前のようではありませんでした(Ⅰサムエル1)。本当に心が解放されたのです。私たちにもまた、ヨブの三人の友人のように神様が備えて下さった助けがあるはずです。そして心を注ぎだして祈ろうではありませんか。

 

 愛する天のお父様、ヨブが語り出しました。そのことは、ヨブに答えを与え、また答えに導くことになりました。神様が備えて下さった一つ一つの事柄、三人の友人にも奥様にも、またエリフという青年にも欠けがあります。でも欠けがある中で、彼らはヨブに近づき、ヨブの傍に寄り添っていました。私たち一人一人も欠けのある者ですが、神様が用い、役立たせて下さることを信じます。私たちの周囲にも欠点がありますが、神様は必ずそれらを導き、私たちを励まして下さることを信じます。私たちが神様を見上げ続ける者でありますように。(20211031日礼拝 石岡キリスト教会臼井信博牧師)