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謙遜を学ぶクリスマス ピリピ人への手紙2章5~11節

【新改訳2017】

ピリ

2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 聖書の言う謙遜とは、いつも自分の上に神様を認めることです。その反対は高慢、即ち自分の力を信じて、自分の思いを優先することです。この手紙は、ギリシャのピリピにあった教会に宛てられた手紙です。この教会の人間関係には亀裂が入っていました(4:23)。ピリピ教会は比較的新しい教会でしたが、信徒の熱心な伝道によって急成長しました。特にユウオディア、シンティケという二人の女性が中心的な働きをしていました。しかしどんな組織でも中心的な人物が複数いると、対立や仲間割れが起こりやすいものです。彼女たちは正しい行いをし、聖書の知識も豊富でした。ただ、問題は高慢にあったのです。そこでパウロが話したのがイエス様の謙遜でした。今日は、謙遜な者の三つの特徴について学びましょう。

 第一は、地位に固執しないことです(2:67)。イエス様は神様としての在り方を捨てられないとは考えず人間になった、これがクリスマスの出来事です。この世界のすべてをつくられ、すべてのものの頂点にある方が、か弱い人間の赤ん坊になったのです。ユウオディア、シンティケは人格者でしたが、それぞれの正義を主張してしまい、また自分の功績に照らして自分はもっと適切に扱われるべきだと考え始めました。私たちも、自分はこのように扱われるべきだという在り方にこだわっていないでしょうか。私たちにはそれぞれ立場(親、牧師など)がありますが、それが少しでも揺り動かされると、怒ったり不安になったりしないでしょうか。イエス様は神としての在り方すべてを捨てて、この地上に降りてきて下さいました。私たちも、イエス様のこのへりくだりに倣いたいと思います。

 第二は、神様の思い(みこころ)に従うことです(2:8)。イエス様の祈り(ルカ22:42)は、私たちに祈りの仕方を教えてくれます。まず私たちは、自分の抱えている問題や願いを率直に祈ってよいのです。イエス様はこの杯(十字架の死)を取り去って下さいと言いました。しかし同時に、自分の願いではなく神様のみこころがなるようにして下さいと祈りました。そして最後にはみこころである十字架の死に従われました。私たちは、無意識に祈る前から答えを決めてしまっていることがあります。しかし、祈りの本質は自分の願いをひたすらいい続けることではなく、神様がどう思われているのかをたずねることです。私たちが心をこめて祈る時、自分の小さな願いに固執するのではなく、大きな神様のみこころに気づいていくことができます。

 第三は、神様に委ねることです(2:9)。イエス様は自分で這い上がったのではなく、神様がイエス様を高く上げて、すべてにまさる名を与えられました。謙遜な者とは、神様が必要なものすべてを与えて下さると信じる人のことです。ヘロデ王はイエス様が生まれた時、王座を奪われる恐怖から、ベツレヘムに住む二歳以下の子どもをすべて殺してしまいました。自分が神になっている者がいかにストレスを感じ、人に引きずり落とされる恐怖を味わっているのかがわかります。聖書は、自分の力で地位や尊敬を勝ち取ろうとする人生の愚かさを教えています。私たちも、慕われないで死ぬのは恐いと思うかもしれません。しかし、神様が私たちを高くして下さるという信頼が、私たちの人生を豊かにしてくれます。。勝ち取ったものではなく、与えられたもので生きる、これが謙遜であり、豊かな人生ではないでしょうか。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。この世界のすべてをつくられた神様が、か弱い赤子になる、そのような他に類を見ない謙遜を今日、みことばから教えられました。私たちもプライドを持っています。しかしそれがもとで組織や人間関係を壊してしまいそうになった時、イエス様の謙遜に目を留めることができますように。イエス様のへりくだりに倣うことができますように。主よ、どうぞ私たちに謙遜を教えて下さい。私たちのためにすべてを捨てて、私たちを愛して下さっていることをありがとうございます。(20211219日礼拝 武田遣嗣牧師)