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全ては神の御手にある 詩篇46篇1~10節

指揮者のために。コラ人による。アラモテの調べによせて。歌。

 

1神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ
4川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
6国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
8来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
10「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」"
詩篇 46篇 1〜10節

 今日は詩篇46篇から、礼拝について三つのことを学びたいと思います。

第一に、礼拝とは身を避けることです(13)。敵がいたり心が折れそうな時、また天変地異があっても、この詩篇の作者は神様のもとに逃げ込むことができました。「そこ」は、作者と神様との距離の近さを表しています。信仰が強い人とは、困難が起きた時自分で解決するのではなく、神様のもとに身を避けて神様から力をいただくことができる人ではないでしょうか。また、冒頭にある「アラモテ」とは、女性(特に処女)を表しています。つまりこの詩篇は、まだ人生の荒波を知らないか弱い女性たちによって歌われるものでした。敢えて彼女らが歌うことによって、どんなに弱い者も主を避け所とするなら助けられるというメッセージがこの詩篇には込められています。私たちはこれを、自分の歌として口ずさんでいきましょう。

第二に、礼拝とは静まることです(45)。4,5節は、神を避け所にする安心を景色によって表現しています。この詩篇を改めて見ると、静けさ(1)から始まり、激しい天変地異が描かれ(2,3)、再び静けさに戻って(4,5)、国々が騒ぎたち(6)、静けさに戻る(7)という、静と動を繰り返していることがわかります。私たちは罪によって汚れた世界に生きているので、自然災害や人の争いが必ず起こります。しかしその合間にあって、神様は安心と静けさを与えて下さいます。但し、私たちが積極的に神様の前に静まろうという意識は、とても大切だと思います。礼拝5分前には静まって、神様に心を向けましょう。礼拝が始まったら、百パーセント心が神様に向かっている状態にしていきましょう。私たちは今年、積極的に静まって、それぞれが神様から恵みをいただく年にしましょう。

第三に、礼拝はやめることです。私たちは静かにしていても、やめていない時があります。日常生活の思い煩いを思い出し、なかなか礼拝に集中できないことがあります。先ほど讃美をした福音讃美歌344番は、宗教改革者マルチン・ルターが詩篇46篇をもとに作詞しました。この歌は、宗教改革から十年以内に作られた可能性が高いと言われています。彼は最も多忙な時期、毎日2時間祈って「神はわがとりで、わが強き盾」と告白し続け、神様が必ず守って下さることを信じて、「やめる時間」をとても大事にしていました。だからこそ宗教改革の間、ルターの心は守られて、自分の仕事を続けることができたのでしょう。私たちにはそれぞれ、中断したくない仕事、趣味があると思います。しかし私たちはこの一年、集中して神様を礼拝しましょう。神様は礼拝を通し、川のような平安を与えて下さるはずです。

 

 「静まって知れ。わたしこそ神」。天の父なる神様、日々の恵みをありがとうございます。私たちはそれぞれ忙しい日常を過ごしております。日曜日になってもそれをなかなか忘れられない時もあるでしょう。しかし、あなたに身を避ける者を神様は必ず祝福し、平安に満たして下さると、詩篇46篇から学びました。ルターのようにそれを信頼し、神はわがとりで、わが強き盾と告白しながら、この一年間神様の礼拝を守っていくことができるように、私たちに信仰を与えて下さい。(202213日新年礼拝 武田遣嗣牧師)