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感謝して生きる人生 サムエル記第一25章1~13節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 25 ]

25:1 サムエルは死んだ。全イスラエルは集まって、彼のために悼み悲しみ、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒野に下って行った。

25:2 マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。

25:3 この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

25:4 ダビデは、ナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。

25:5 ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行ってナバルのところに着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、

25:6 わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。

25:7 今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。

25:8 あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

25:9 ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。

25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。

25:11 私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」

25:12 ダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。

25:13 ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。それで、みな剣を身に帯びた。ダビデも剣を帯びた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。

 

 リック・ウォレンというアメリカの牧師が、人間の原動力になりやすいものについて、怒り、恐れ、物質主義を挙げています。では、私たちは何を原動力にしているでしょうか。 

聖書は感謝を原動力にするよう、私たちに命じています。今日は感謝について共に学んでいきましょう。

 イスラエルの羊飼いは荒野で羊を育てます。草が育たない土壌なので、羊飼いは荒野を巡りながら各所に生える僅かな草を食べさせて育てるのです。荒野は猛獣の他、ペリシテ人の略奪隊が多数いたと言われています。ダビデはこれまでナバルという有力者の羊や山羊を守ってきました。そして荒野の用心棒を務めた代価を得ようとナバルを訪ねました。しかしナバルはダビデに感謝するどころか、ダビデに何も与えず、不平まで言いました(1011)。彼は物質主義にかりたてられて生きていました。人生においてどれほどの物を所有できるかにこだわっていたのです。だから、ダビデに何も分け与えることができませんでした。ナバル(愚かという意味)は本名ではなく、陰で言われていたあだ名ではないかと分析する聖書学者がいます。つまり、物質主義に支配されて生きるナバルは、どれだけ地位や財産があっても、人々には愚かに映っていたのです。25章全体には感謝できない者の愚かさが、ナバルという人物を通して表現されています。

 さてナバルの対応に、ダビデは怒り心頭です(1213)。彼はこれほど怒りっぽくはなかったはずです。しかしここには、自分を殺そうと追ってきたサウルをゆるしたダビデでも、一度怒りに呑み込まれたら怒りを原動力にしてしまうという恐ろしさがあります。

 一方、サウルは恐れが原動力になっていました。もしダビデに王座を奪われたらという恐れから、ダビデの命を狙っていたのです。

 聖書が教える最も良い原動力は感謝です。すべての人が神様の恵みを受けて生きています(マタイ545)。そしてこの世界をつくられた神様を認める時、私たちは感謝を原動力とする人生を生き始めるわけです。もう一つ、これは最も重要なことですが、私たちがイエス様にある救いを受けるのであれば、怒り、恐れ、物質主義ではなく、救いに対する感謝によって生きることができます。

 ここでイエス様の十字架に思いを馳せてみたいと思います。十字架につけられたイエス様の周りには、物質主義、恐れ、妬みなどに人生を支配されている人たちがいました。例えば、十二弟子の一人ユダは物質主義に支配され、イエス様を売り渡しました。パリサイ人、律法学者は、自分より知識や人気のあるイエス様に対する妬みや怒りによってイエス様を十字架にかけようとしました。また、イエス様の弟子たちは恐れによって誰もイエス様を助けることができませんでした。イエス様は、神ではないものに人生をコントロールされている人たちによって十字架にかけられたのです。しかしイエス様はこれらの罪に勝利して、私たちに救いをもたらして下さいました。救いは怒りと憎しみに支配されている人に、ゆるす力を与えることができます。救いは恐れに支配されている人に、主にあって前進する勇気を与えることができます。物質主義に支配されている人には、目には見えない、信仰、希望、愛に心を留める力を与えてくれます。この世の人々は宗教は人生を縛ると言うかもしれませんが、聖書はむしろ私たちが縛られているこれらのものから私たちを救って、自由にすると語っています(ヨハネ832)。もし私たちが救いを心から受け取るなら、私たちは今まで原動力にせざるを得なかった怒り、恐れ、物質主義から解放され自由になれます。そして救いに対する感謝がその人の原動力になるのです。

 

 天の父なる神様、イエス様の十字架の周りにいた人たちは恐れ、妬み、物質主義などに支配されていました。しかしイエス様は、彼らを救うために自ら十字架にかかり、死に、復活して下さいました。私たちがこの救いを素直に受け取って、感謝して生きることができますように、どうぞ力を与えて下さい。みことばは私たちの魂を救うことができます。どうか、私たちがみことばを素直に聞き、イエス様の救いのすばらしさについて目が開かれ、あなたの救いの喜びを原動力にして歩むことができるように、どうか一人一人に、あなたのみことばをはっきりと知ることができる知恵を与えて下さい。(2022313日礼拝 武田遣嗣牧師)