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天国の切符 ヨハネの福音書14章1~7節

【新改訳2017】

ヨハ

[ 14 ]

14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

 

 今日は、天国に行くためにはどうすればいいのか、共に学びたいと思います。

イエス様は弟子たちに、心を騒がせてはなりませんと言われました。弟子たちの心が騒ぎ立っていたからです。その理由が13章にあります。そこには、ユダとペテロの裏切りについて書かれています。13章で指摘された人間の罪によって、弟子たちの心は騒ぎ立っていたわけです。私たちもペテロのように、きよく正しく生きたいと願っていながら、それができない心を持っているのではないでしょうか。聖書は、人間が正しい行いを積み重ねることによって天国にいくことは不可能だと教えています。ですから、イエス様は私たちにもう一つの道を教えて下さいました(1)。

 「わたしの父の家」とは天国のことです。聖書には、私たちはこの世では旅人だと書かれています。しかし、天国は温かい家のような場所です。イエス様は、たとえ罪を持っていたとしても、私たちが天国に行けるようにして下さいました。その方法は、イエス様が十字架にかかって、私たちの罪の身代わりになるということでした。まず人間には罪があります。罪とは、神様と人とを離れさせるものです。このままでは、私たちは天国に行くことはできません。罪はいずれ死に至ります。死は体の死だけでなく、神様と永遠に離れ離れになる霊的な死を表しています。イエス様は自ら十字架にかかって死の身代わりとなって下さいました。私たちはイエス様を道にして、父なる神様のもとに行くことができるのです(6)。イエス様は十字架にかかりながら、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。イエス様は十字架の痛みの中で、神様と離れ離れになる経験をして死んでいきました。この体験は、本当は私たちがしなければならないことでした。しかしイエス様は私たちを愛していて、私たちが天国に行ってほしいと願い、私たちの身代わりに死なれたのです。このような方が私たちの神である、と聖書は記しています。なぜイエス様だけが道なのか、それはイエス様が神であり、人であるからです。イエス様は神様と同列におかれています(19)。人間は、人間の罪の身代わりになることはできません。人間の罪は聖書ではよく借金にたとえられます。借金のある人は誰かの借金を肩代わりすることはできないです。私たちの罪を肩代わりできる方は、罪のない神様だけではないでしょうか。また、イエス様は神であると同時に、人でもあります。人間の罪の身代わりになれるのは、人間だけです。

 私たちは時に良い行いをしても、それは天国に行くには足りません。イエス様は良い行い、良い心で天国に行くのではなく、信じることによって天国に行く道を示して下さいました。

 

 天の父なる神様、もしこの中に、秘かに自分の罪を言い表した方がおられるのなら、どうぞあなたがその方の罪をゆるして、天国に導いて下さいますように。また、神様は自分に罪があるということがわからない方も愛して下さっていることを、私たちは知っています。どうぞひき続き、一人一人の人生に関わって下さいますように。主よ、あなたが私たち一人一人のために十字架にかかって死んで下さったことをありがとうございます。私たちの神様は、私たちに罰を与えたいとか、私たちを常に見張っているような方ではなく、私たちを愛してやまない方です。この神様とここにいる一人一人が共に歩んでいけますように。そして天国に着いた時、神様と親しい交わりを持つことができますように。この世で足りないと思っていた関係性を神様が満たして下さるという喜びを知ることができますように。主よ、どうぞ一人一人を覚え、天国に導いて下さい。(2022417日礼拝 武田遣嗣牧師)