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あなたを背負う神 サムエル記第一29章1~11節

【新改訳2017】

Ⅰサム

[ 29 ]

29:1 ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。

29:2 ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。

29:3 ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」

29:4 ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。

29:5 この男は、皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌っていたダビデではないか。」

29:6 そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「【主】は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。

29:7 だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」

29:8 ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」

29:9 アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが『彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない』と言ったのだ。

29:10 さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。」

29:11 ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。

 今日はダビデに降りかかった試練と、彼がそれをどう乗り越えたかについて見ていきましょう。

 ペリシテ人は、これまでにない規模でイスラエルに戦争を仕掛けました。ダビデは当時、ガテの領主アキシュのもとに身を寄せていました。そしてダビデもペリシテ人と一緒に、祖国イスラエルに攻め込むことになったのです。ダビデはサウル王の手から逃れるために仕方なくペリシテ人の地にいたのですが、祖国イスラエルの人々を心から愛していたし、彼らと戦いたくありませんでした。もしダビデがペリシテ人に協力して戦争に参加すれば、愛する祖国イスラエルの人々を傷つけることになります。逆に戦争に参加しなければ、ペリシテ人に裏切り者だと思われてしまいます。私たちの人生にも、ダビデと同じような状況を通ることがあるかもしれません。いつも心のままに行動できれば良いのですが、いつも心と行動が一致しているとは限りません。29章までのダビデの試練は、どちらかと言えば肉体的な試練でしたが、今回の試練は精神を蝕まれていくような試練です。しかし、思わぬところからダビデに助けがありました(4)。ペリシテ人の首長(領主)とは、ペリシテの町を代表する人です。彼らがダビデを帰らせてほしいと言ったのです。これからイスラエルに攻め込もうとする時、自分の陣営にイスラエル人がいたら、その人物は寝返るのではないかと疑ったからです。そのおかげで、ダビデは戦争に参加しないですむことになりました。ぎりぎりで、ダビデは助け出されたわけです。アキシュはダビデに、「主は生きておられる」という言葉から話し始めました(6)。ペリシテ人は聖書の神様を信じていないので、この言葉は非常に不自然です。「あなたは真っ直ぐな人だ」、これはアキシュの本心かもしれませんが、かなり大袈裟な表現だと言われています。それは、ダビデにおとなしく帰ってもらうためでした。このようにペリシテ人の地でダビデが体験したことは、味方だったのに敵のように扱われたり、大袈裟に褒められたり、何かこの世の薄っぺらい人間関係が良く表れているようです。心と心、ありのままで話ができたら何と良いことでしょうか。しかし自分の弱さや罪といった、心の奥を共有して共に涙を流せる関係は、本当に僅かです。ダビデにはヨナタンという共に涙を流せる友がいましたが、彼がペリシテ人の地で体験した人間関係はこの世の人間関係、本心を隠して付き合わなければならないものでした。ダビデは私たちと同じように、この世の人間関係に葛藤していたことがわかります。

 では、私たちはなぜこのような苦しみを通らなければならないのでしょうか。その回答を一つ紹介します。私たちに苦しみがあるのは、この世が最終地点ではないことを知るためです(Ⅱコリ4:17)。この世には安心、楽しみがあります。しかし聖書は、この世が安住の地だと勘違いしてはならないと繰り返し教えています。CS・ルイスは、「私たちは宿から宿へ渡り歩いていく旅人だ」と言いました。確かに宿には楽しみがあるし、安心があります。しかし、その宿にずっと留まっていようと思うなら、私たちが神様のみこころを積極的に行っていくことはできないと教えているのです。神様は私たちの人生の節目節目に宿を用意して下さっていますが、最終的な目的地、真の安住の地は神の国、天国であることを、私たちはいつも心に留め、苦難を乗り越えていかなければなりません。ダビデにとって、ペリシテ人の地は最初は安心できる宿のような場所でした。しかし神様は、そこに安住するのではなく、イスラエルに戻って神の国への旅路を続けてほしかったのです。2930章にはダビデの最大の苦難が描かれています。「心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです」、私たちは苦難があるからこそ、心が貧しくなるからこそ、神様を見上げることができます。私たちは、天国への道を積極的に歩んでいきたいと思います。

 最後に、私たちはダビデのように心のままに生きられない苦痛を感じることがあります。しかし、この世界をつくられた神様は、私たちがありのままを神様に告白することを喜んで下さる方です。神様は私たちの正直な罪の告白、醜い思いを聞いても、変わらず私たちを愛して下さいます。心のままに生きられない苦痛を抱えている私たちにとって、何でも話し、祈ることができる神様と共に天国までの道を歩むことができるのは、何と幸いなことでしょうか。私たちを背負って、私たちと共に天国への道を進んで下さる神様に感謝して祈ります。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。心と心が通じ合う、本音の美しい人間関係だけで生きていくことはできません。ダビデのように本心を隠して、薄っぺらいように見える人間関係の間を生きていかなければならない苦悩が私たちにもあります。しかしあなたは、私たちの正直な罪の告白、思いを聞いても、変わらず私たちを愛して下さるということを、今日信じます。この神様を知っているのですから、神様に全てを明らかにしつつ、人生を歩んでいけるように助けて下さい。(2022613日礼拝 武田遣嗣牧師)