5月2日、Hi-b.a(高校生聖書伝道協会)の代表スタッフ、荒井恵理也先生が礼拝と午後の集会で聖書のお話をしてくださいました。
本当のことを教えます
高校生A君が、ある時こんな話をしました。体育の授業中、クラスの数名の不良と呼ばれる生徒がおしゃべりをしていました。それがあまりひどいので、先生が注意をしたら、彼らは逆切れして激しい口論になり、一方、他の生徒は体育館の床に座ってそのやりとりを見ていました。先生は他の生徒達に「授業をやれ」と指示したのですが、誰も動きません。なぜなら、そこには「先生対生徒」という対立の構図が生まれていたからです。しかしA君は体育が好きだし、明らかに不良の生徒達が悪いとわかっていたので、「自分が立ち上がれば、みんなも立ち上がるかもしれない」と思いました。まさに立ち上がろうとしたその瞬間、不良の一人が
「っていうか、誰もこんな状況の中で立つ奴、いるわけねえだろ。っていうか、立つ奴いたら、うざくねえ?」
と言いいました。これを聞いたA君は体が硬直してしまったと言うのです。結局授業は中止になり、A君は本当に悔しい思いをしたそうです。体育が好き、先生も好きだ、悪いのは不良なのに結果的に不良の側についてしまった、と自分の思いと逆のことを強いられた、自分の思いを表現できなかった、それが悔しくてたまらなかったと言うのです。
こうしたことは、学校で日常的に経験することかもしれず、心が痛む高校生も多いと思います。人の目が気になる、人の評価が気になる、仲間と一緒にいないと不安、友だちと違うことをするのが不安なので、何となく群れる。言いたくないけどみんながあいつの悪口を言うから自分も言っちゃう、自分の心の中で思っていることと、している行動がずれていってしまう、これを経験していくと心が苦しくなります。あなたはその中で「仕方がない」とあきらめながら生きていませんか。人生を束縛するもの、一つは「人の目」です。
また、あなたの心の中にあるふさわしくない生き方、やめられない行いもあなたを生きにくくします。妬み、不平不満、悪口…。私達の唇は人に愛を語り、神様に感謝するためにあるのです。しかし人を励まし、感謝を表すためにある唇を、人をののしったり、悪口を言うために使っている、そうすると私達の人生は自ずと生きにくくなっていきます。
2000年前、イエス・キリストはこう語りました。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31~32)
当時のユダヤ人はこの言葉を聞いて驚きました。彼らは奴隷ではない、社会的な意味で自由だったからです。私達も同じです。様々な自由が保証されています。しかし権利としての自由はあるけれど、私達の心は友達の目に、人の評価に縛られています。それは本当のことを知らないからです。あなたがこの世界でたった一人しかいない尊い存在として生きるように、イエス・キリストは十字架にかかってくださった、このことを知らずに生きているので、不自由な生活を強いられているのです。
キリストは始めは多くの人から尊敬され、キリストの行くところ、常に人だかりができました。しかし群衆は次第にキリストのもとから離れ、弟子達からも裏切られます。不当な裁判、不当な罪を着せられ、非常にむごい刑を受けました。あなたは友だちから裏切られたり、馬鹿にされたり、暴力を受けたりした経験があるかもしれません。キリストもあなたと同じように屈辱を受け、裏切られ、暴力を受け亡くなったのです。キリストはあなたが今心に抱えている痛み、悲しみ、傷をご存知であって、それを癒し、慰めることができます。
それだけでなく、私達の心に傷をもたらす「罪」を十字架によって解決できると聖書は言っています。イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかられました。そしてイエス・キリストを信じて罪を告白し、心の中のすべてのものを告白し、キリストを受け入れるその人は、あらゆるものから自由にされます。これが本当のことなのです。
あなたは愛されるために生まれたのです!
聖書はこんなに分厚くて、絵もなくて、二段になっているし、一体何だろうと思うかもしれないけれど、言いたいことはシンプルで、要は「神様はあなたのことを大切に思っています」ということを言いたいのです。
中高生の中には、自分の存在を大切に思える人は少ないかもしれません。それで友だちと自分を比較して劣等感にさいなまされたり、卑屈になったりするわけです。部活でレギュラ-をとれなかったり、勉強は中の中、外見も大したことなかったら、自分というものの価値がわからないかもしれません。それは周囲に「あなたは大切ですよ」と言ってくれる人が誰もいないからです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)
この「わたし」は神様のことです。他の人は知らないけれど、神様の目から見ると、あなたは高価で尊いという意味です。
子どもの頃、クラスで牛乳瓶の蓋を集めるのが流行りました。中にはヨ-グルトやコ-ヒ-牛乳の蓋を持ってくる子がいて、プレミアっぽくなりました。ある時、友だちの牛乳瓶の蓋がなくなり、大事件になりました。犯人は見つからず、私達が集めた蓋はすべて先生に没収され、蓋集めは禁止されてしまいました。牛乳瓶の蓋はゴミだけれど、当時の私達には宝物でした。他の人には価値がなくても、その人に大切なものはあると思います。同じように、あなたの友だちはあなたに「むかつく」と言うかもしれませんが、神の目から見たら「高価で尊い」のです。
「あなたが大切な存在だ」ということは、友だちが決めることではありません。もしそうなら、「むかつく」と言われたらそう思わざるを得ません。また、あなたがあなたの価値を決めるのでもありません。そうでないと「どうせ俺なんて…」という言葉が本当のことのように聞こえてきます。あなたの価値を決めるのは、この世界を創られた神です。あなたを創られた神が、あなたの本当の価値を決めるのです。自動車、電気製品、造ったメ-カ-が物の価値を決めるのです。神様が「私の目には、あなたは高価で尊い」と言ってくださるのですから、学校の友だちが悪口を言ったとしても、傷つくかもしれないけれど、気にしなくていいのです。
Words & Music by Yakafumi Nagasawa
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愛をもって生きていこう たがいに手をとりあって
イエスのため生きていこう 愛の光のなかを
わたしの人生は愛が満ちあふれる
愛し合う心をイエスはおしえてくれた
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