JECA中関東地区東地域 2014夏期聖会Ⅱ

キリストの友・それは互いに愛する  ヨハネの福音書15章9~17節

 今日の箇所では、兄弟姉妹が愛し合うことこそ、世で戦う神の民の力だということを共に覚えたいと思います。イエス様はそれを知らせようとしておられます。その理由の第一は、9~17節に「愛する」という言葉が9回用いられているからです。第二に、父がわたしを愛されたようにわたしもあなたがたを愛しました、・・・わたしがあなたがたを愛したように、愛し合うことがわたしの戒めです、と繰り返し語っておられるからです。御父が御子を愛されたことが愛のスタ-トであり、それはキリストが弟子を愛し、さらに弟子が御父に結びつくためでした。第三に、イエス様が弟子たちを「わたしの友」と呼ばれたからです(14)。「わたしの友」という表現は限られた箇所にしかなく、それは互いに愛し合う者だということを強調するために使われています。

 では、キリストの友のしるしとは何でしょうか。第一は、キリストの愛にとどまることです(10)。14節を見ると、人間の力によってキリストの友とされると考える危険があります。しかし15節で「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びました。」と断言しています。ですから、14節は友となる条件ではありません。これは第一に、どんな条件のうちに友とされたのかということ(恵みによって友とされている)、第二に、互いに愛することに召されていることの強調、第三に、友という関係の忠実さのしるしは、キリストの命じることを行うことなのだということ、第四に、キリストの友とされるのは、キリストご自身がつくりだして下さったということを人間の側から表現しているのです。キリスト者がキリストの友とされてこの世で生きることの何よりのしるしは、愛し合うことです。ヒエロニムスという教会史家が伝えた話によると、ヨハネの福音書を書いたヨハネは臨終の際、弟子たちに「子たちよ、互いに愛し合いなさい」と何度も繰り返したそうです。そして「それだけですか」と問う弟子たちに、ヨハネは「それで十分だ。それが主の戒めだから」と答えたと言われています。

 第二のしるしは、キリストが愛されたように互いに愛し合うということです(12)。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、どういうことでしょうか。ヨハネ、ペテロ、パウロは、自分に対するキリストの愛について、それぞれ書簡で語っています。キリストがどれだけ私を愛されたかを知っていることは、互いに愛し合うための鍵です。ですから、キリストが私を愛されたことを知れば知るほど、互いに愛し合う愛が成長していくと思います。

 さて、互いに愛し合う時に、少し考えたいことがあります。一つは、互いにと言うと、つい相手が自分を愛することを求めがちです。しかし聖書が言う「互いに」とは、見返りを求めるのではなく、一方的に愛して結果的に「互いに」になるのです。二つ目は、相手を聖く傷のないものとして御前に立たせるようにするのが愛だということです(エペソ5)。三つ目は、自分のあり方を捨てることです。この箇所を私流の言葉で言うと、自分に不誠実に生きる意志こそ愛だということです。

 第三のしるしは、キリストの友のためにいのちを捨てることです。そして友として歩む時、キリストのために苦難に遭います(ルカ12:4)。

 次に、キリストの友の祝福についてですが、その第一は、キリストの友にはすべてが知らされるということです(15)。しもべもすばらしい称号ですが、しもべは神様に従うことが主体でしょう。しかし友は親しく、すべてのことを知らされる存在です。当時、ロ-マ帝国や東方の国々には「王(皇帝)の友」という存在があったそうです。王の友は、王が目覚めた時にまず召し出され、王と共に語り合い、王の考えや悩みを聞く存在だったそうです。ここでイエス様があなた方はわたしの友であると言われたことは、王の友ではなく神の友、キリストの友として選んだということです。第二に、選んで下さったということです(16)。第三に、任命して下さる(立たせる、掲示する)ことです。私たちはキリストの看板としてこの世の中に掲げられた者です。第四に、求めるものは何でも与えられるということです。これは、任命されて神様の栄光のために生きるための必要は、何でも与えられるということです。

 ここで、16節の御言葉から祈りについて触れたいと思います。祈りは信仰に立った祈り、十字架と復活の原理に立った祈りでなければなりません。そして祈りは御旨が変わりますようにではなく、御旨が成りますようにと祈るものです。OMFの大先輩メティカフ先生は、日本の捕虜収容所で「炎のランナ-」の主人公エリック・リデルから教えを受けた人です。彼は「敵のために祈れとリデルから教えられた。そして実際に日本のために祈った。でも日本軍は変わらなかった。でも自分が変わった」と語ったそうです。御心によって自分が変えられていく、それが祈りです。

 さて、キリストの友の使命についてですが(16)、第一は行く、第二は実を結ぶ、第三は実を残すということです。「行って」とは世に出ていくことです。キリストにしっかり結びつく者は、キリストから離れて世に出ていき、実を結ぶのです。そして一時的な実ではなく、実を残さなければなりません。

 最後に、キリストの友として生きる者の光栄は、キリストの喜びが満ち溢れるということです(11)。それは自分を捨てた時の喜び、キリストに従った時の喜びです。今この日本で、教会に、キリスト者に、本当にキリストの友として生きる、キリストの喜びを味わうことが求められているし、約束されているのです(Ⅰペテ1:5~8)。

 天の父なる神様、あなたがあなたの友と選んだ者たちに、あなたの弟子たちに、何よりも互いに愛し合うことを求めておられ、そして自分を捨てて愛し合う、そしてこの世に出て行ってあなたのために実を残す、その使命を与えて下さり感謝します。どうぞ、あの初代のしもべたちがあなたのことばに従って生きたように、今の私たちもこの日本で、世界で、本当に自らを捨てて、そしてあなたの友として生き抜く者として下さい。そして、この世であなたの喜びにいつも満ち溢れて歩ませ続けさせて下さい。(聖会Ⅱ)