賀状を眺めつつ祈られる存在(旭川・緑ヶ丘便り13)

 

 不確かだが過去2年は年賀状を出さなかったし、頂いた年賀状を落ち着いて読むことをしなかったと思う。そして一昨年秋から、目まぐるしく所在が点々としたため、友人たちから連絡場所が判らず困っているとの声を耳にするようになった。そのため、何としても今年は年賀状を出さなければならないと、旭川に来て以来早めに準備した。小生たちには珍しく年内に投函した。ただし、木版や毛筆の宛名ではなくなった。それでも友人たちに所在と近況を知らせることが出来た。その結果、多くのクリスマスカードや年賀状を頂いた。体調が悪く、苦痛故何もできないので、逆に例年以上にゆっくりと、頂いた賀状を読み、下さった方に思いを馳せ、祈ることが出来た。これまで、頂いた賀状を正月の時期に読み、その人のために祈った後、捨てるのはもったいなくて、朝夕夫婦で祈る時に賀状を読み、その人のために祈るようにして来た。同時に版画や自作の絵画や風景写真等、特徴ある賀状を張って眺め、そこにある人々を覚えていた。

 

 ところが、現在住んでいるアパートでは画鋲もセロテープも使うことが出来ない。だから賀状はおろか、時計もカレンダーも掛けることが出来ない。壁は白一色できれいと言えばきれいだが、味気なく不便で仕方ない。そこで何とかしようと相談した。そしてホームセンターで細長い板きれを買い、それを教会員から貸していただいている木製の本棚に打ちつけ、それに年賀状を張ることが出来た。思った以上に多く貼れた。

 

 賀状を一枚一枚眺めていると、賀状が単なる賀状ではないと思うようになった。自作の絵、写真、版画あり、たまにパソコンによる判読不可能なほど小さな字で書いたものあり、千差万別である。しかし、そこに共通しているのは、一人一人の一年が凝縮されていることだと思う。詳細に書こうが、一行で書こうが、写真であれ、絵であれ、とにかく過去一年と、これからの一年を表す方法としての手段が違うだけではないかと思えてならない。だから賀状は、たかが賀状であっても、そこにはその人の一年または二年が描かれていると思えば、一枚一枚がその人の生命がかかっている尊い存在であると思われる。

 

 と同時に壁に張られた賀状を眺めていると、この人たちにいつも祈り支えられているのだとも思わされる。特に、今年のように体調が悪く、苦しい毎日を送る時、役立たないにも拘らず緑が丘に遣わされ、何とか奉仕させて頂いているのは、唯々多くの友人兄姉に祈られているからだと感謝するばかりである。自分たちの力や信仰によるのではなく、この背後の祈りの支えあって、今がある存在だと思わされる、壁の賀状である。

 

「また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈って下さい。」コロサイ4:4