カテゴリ:遣僕使の歩み



2019/11/08
⑪再婚 10数年前、小生が中咽頭癌になった頃、夫婦して相手が先に召された後、どのように生活するかを話し合った。当時二人とも自分が先に召された場合は、是非再婚して欲しいと願った。小生は「もちろん再婚するよ」と言い、澄代は「しない」という意見だった。  あれから時が過ぎ、小生は70後半になり、澄代も70になろうとしている。澄代はだが...
2019/08/11
⑤北海道地区 教職者会 7月23日(火)~24日(水)北海道地区教職者会が真駒内青少年センターで行われ、小生夫婦も出席した。50人の出席者だったと思う。小生が去年(2018年)地区総会に出席した後、4月末に緑が丘教会を去ったので、1年数か月振りに地区の教職者に会った。新しい顔ぶれが多く半数くらいは知らないように思った。...
2019/07/26
① PMFオケ公園を聴く  苫小牧には7月10日夜到着した。そして14日、最初の主日礼拝奉仕であった。貧しい奉仕にも拘わらず主が憐れみによって用いて下さったと信じてお委ねしている。礼拝は小生夫婦を含めて10人で、聖餐式と、後に愛餐会もあった。   その翌日7月15日、思いがけずPMF オーケストラ公演を聴く恵みに与った。...
2019/07/10
 7月10に糸井福音キリスト教会に赴く。今日(3日)から一週間後である。かなり前から糸井教会のために準備をしているがどうも捗らない。去年8月にウィーンの奉仕から帰国し、急に体調が悪くなり、クアラルンプール教会の奉仕をキャンセルし入院した。しかも想像外の心臓のカテーテル手術も受けた。退院後は体調が戻らず、入院中と同じように寝ては食べ、食べては寝る生活が続いた。この間、説教等の奉仕のことは全く考えず、ひたすらゴロゴロするだけであった。  4月になり、そろそろ糸井のために準備しなければと取り組み始めた。ところが全然捗らない。数カ月、奉仕の責任から離れてひたすら療養していたために剣の鞘が錆ついてしまったらしい。休養をとった後、以前に増して霊的に鋭くなる人もいるだろうが、小生の場合は錆ついている。かつて尺八の先生が「毎日練習しなさい。一分でも吹きなさい。それが出来ないなら触るだけでもしなさい」と言われたことを思い出した。また「一日吹かなければ三日前に戻る」とも言われたのだ。数カ月の空白で錆ついた霊力が元に戻るために何日かかるだろうか。一週間後に迫った出発を前に、ただ主の憐れみに依り頼むばかりである。 2019.7.3.
2019/07/10
7月10日に北海道の苫小牧にある糸井教会に、約2年間の予定で留守番に赴く。使命は若い牧師を招聘することである。糸井教会には車がないため、那珂湊から車をフェリーで運ばなければならないと考えていた。那珂湊の隣町、大洗から苫小牧にフェリーが運航されているので好都合と考えていた。ところがフェリーの費用が想像以上に高く、車一台と運転手プラス一人で片道4万円以上であることが分かった。小生は種々の病気のため約3カ月に一度は那珂湊に戻らなければならないので、一度往復すれば約10万円もかかる。  どうすればよいかと途方に暮れていた時、夜 寝床で一つの思いが起こされた。それは、糸井教会、緑が丘教会、旭川ローア教会に「車を提供して下さる方を捜して下さい」とお願いすることだった。小生は13年前、中咽頭癌になるまでは床に就けばすぐに眠り、目が醒めれば朝という生活だった。ところがこの病気の後遺症の一つとして夜 数回排尿のため目ざめ、多い時は6~7回に及ぶ。夜何度も目覚めるのはマイナスばかりではなく、祈ったり説教のことを考えたり、新たな発想が与えられたりする。今回も全く考えもしなかった、道内で主が車を備えて下さるようにという願いが起こされた。  翌朝9時頃、前記の三教会に、電話やFAXでお願いした。7月10日まででなくても、8月中旬までに与えられれば御の字と考えていた。ところがその翌日の主の日にこのことを聞いた方から「提供できる車があり是非使って欲しい」との連絡を頂き、驚きつつも主を賛美した。  何ということか。主は小生が想像だにできない程の早さで応答して下さった。小生たちは大喜びで申し出を受け、手続きも進んでいる。とにかく、主がなさることは小生たちの想像外である。どんなことをして下さるかワクワクするばかりである。全能であり、恵みの主にはワクワクして待つ楽しみがある。これから糸井教会に赴くが、主がどんなことをして下さるか期待していればいいのだと改めて思わされている。 2019.6.29.
2019/07/04
 滅多にないことだが、澄代が一人で実家や子どもたちの所に行く時がある。その間、小生は独りで食事をする。食事の準備は殆どすべて澄代がつくって出かけるので、小生は暖める程度のことをすればよい。ただ、この短期間であっても、実際に何を食べるかは小生の自由である。普段の食事は100%澄代が決定して小生に提供してくれる。これは誠に有難いことであり、感謝以外何ものでもない。しかし、他方、何を食べるかという選択の自由がないのが人間として悲しい面がある。やはり、如何にボケ老人になり、澄代に世話になっているとは雖も、食べる自由は人間として基本的に重要であると思う。その意味でわずか4~5回の食事に何をどれだけ自分の好むように選ぶかということは大きな喜びになる。確かに自分で決めることは面倒ではあるが、その面倒さこそが人間の最も大切なことなのだろう。  澄代が留守の間にこの人間としての食べる自由を楽しもう。一方、イエス様が何を食べるか何を着るかに心を奪われたはならないと言われたことも忘れてはならないのだが。  2019.5.31.
2019/07/04
 75歳以上の免許更新のためには講習がある。一つは知的機能の検査であり、もう一つは実際の運転技能の検査である。知り合いの方々は何の問題もなく簡単にそれらの二つの検査をクリアしておられるようである。ところが小生は二つの検査とも難しいと感じた。知的機能検査では痴呆が進んでいることが実感させられた。運転機能では判断力や視野の衰えが良く分かった。実際運転して、車のあちこちをぶつけたり擦ったりすることが多い。それでも免許更新が出来ホッとしている。が、これまで以上に細心の注意を払わなければならない。  他方、澄代は運転が上手い。運転の上手、下手は先天的なもので、努力しても下手は下手だと思う。澄代はまさに先天的に上手く、同乗者は安心していられるのである。高齢になり体力がなくなればなる程、先天的賜物が明らかになるように思う。それは運転だけでなく、信仰のあらゆる面でも主からの賜物が明らかになる。その賜物に応じて歩むことが一番幸せであり楽である。  2019.5.28
2019/07/04
 過日、古い友人母娘が来た。1965年以来与えられた交わりである。5年前、夫である兄弟は召された。小生たち家族とは文字通り、家族ぐるみの交わりであり、兄弟が召された後も変わりなく交わりは与えられている。50年に亘る交わりによって今日の小生たち家族があると言える。...
2019/06/11
 小生が信仰に直接導かれたのは1963年、東京に於いてである。しかし1944年に香川県善通寺市で生まれて導かれる19年間に主の恵みの御手が豊かであったことを忘れてはならないので、ここに思いつくままに記したいと思う。...
2019/06/11
 那珂湊教会はドイツ人宣教師G・ベック師と日本人牧師依田次雄師によって始められた。ベック師は約10年間当教会で奉仕した後リーベンツェラ宣教団を退団し、都下武蔵野市で開拓伝道に従事された。しかし、依田氏はベック師が去った後も那珂湊教会で2013年まで奉仕された。実に50年に及ぶ働きであった。小生が当教会に招聘されたのは2008年であった。当初は、依田氏が主任牧師で小生は副牧師という立場であった。しかし実質は小生が主任牧師で依田師が副牧師のように、依田牧師は謙遜に小生を自由にさせて下さった。小生は依田牧師と以前から個人的に交わり、尊敬していた。それは、牧師も人間であり、どうしても栄誉や指導的立場を求めやすい。しかし依田氏は、那珂湊教会の牧師に徹し、その他の誘惑には目もくれない稀な牧師だったからである。依田牧師のその姿勢は小生との共同牧会においても貫き通された。貫き通したというより、依田師は全く自然に謙遜であった。小生より18歳も年長で経験的にも能力的にも比較にならないにも拘らず、全くそれを思わせぬように接して下さった。現在の那珂湊教会があるのはこの依田師の生き方があってのことであると思う。                     2019.5.23.

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