2018年新年聖会

11章
1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(創世記11:1~9)

 

地の全面に 創世記111~9

 

神様は私たち人間を、「産めよ、増えよ、地を満たせ」というご計画、ご命令に従うようにつくられました。これは単に数が増えていけばいいのではなく、この地、社会を、神を礼拝する善意の人で満たしなさいというご命令でした。しかし、人間は「散らされるといけない」と思ってバベルの塔をつくり、名をあげようとしました。神様のご命令と全く逆です。人はむしろ神様のご命令を携えて、散っていって神を礼拝する者でこの地を満たそうと考えなければなりませんでした。そこで神様は彼らの計画を止めるため、混乱を起こさざるを得なかったのです。

 

さて、クリスチャンとは出て行って福音を宣べ伝える者です。しかし、「散らされないこと」が教会の第一の目的になってしまう時があります。教会をどうやって守ろうかということで心がいっぱいになって、手いっぱいになってしまう、必死に献金をし、奉仕をします。教会のことを思えば思うほど、そういう気持ちにならざるを得ないのです。でも私たちはむしろ出て行って福音を宣べ伝えなければなりません。地に散って行き、そこを神を礼拝する善意の人々で満たすべきです。

 

神様は、バベルの人たちを強制的に出ていかせました。私たちが神様に従おうと、従うまいと、神様のなさることは変わりません。私たちが内側を向いて散らされるといけないからと思う時、教会の中に分裂が生じます。一人一人が内側を向き、自分の信仰を守ることが優先されます。そうすると、互いに心や言葉が何か通じなくなっていきます。これは、私たちへの戒めです。私たちは互いに手を取り合って、自分の教会に留まらず、外に向かって教会を開いていくべきです。

 

私たちは神様の命令の中で生きるのか、それとも神のさばきとして散らされてしまう教会なのか、この二つのことを深く考えたいと思います。

 

愛する天のお父様、聖書はしばしば甘い言葉だけではなく、人の本当に深い失敗、痛み、苦しみを赤裸々に記しています。私たちはそれを読むごとに、これは他人事ではない、そこにいる人は私の姿だと思わされます。私たちの心の中にも、自分の名を上げるために、自分たちが散らされないために、神様のご命令から目をそらし、心をそらす瞬間があることを覚えます。でもどんな状況にあっても、あなたが与えて下さる導きと励まし、そしてあなたのご命令があるからということを心に刻み、震える心を持ち、震える手足を持ちながらも、一歩踏み出す勇気を私たち一人一人にお与えください。(201818日新年聖会午前 石岡キリスト教会臼井信博牧師)

 

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:19~29)

 

イエス様の望んだ平和 ヨハネの福音書2019~29

 

 私たちが平和の問題を考える時、聖書の平和を基礎にして考えるべきではないかと思います。なぜなら、聖書が私たちの人生の基盤だからです。

 

 今日の箇所には三回、「平安があなたがたにあるように」(シャローム)と書かれています。これはただの挨拶ではありません。聖書の平和の意味が表されているのです。

 

第一に、真のいのちが与えられていることです(19~20)。今日の箇所は、イエス様が十字架にかけられて三日後の話です。弟子たちは失意の中にいました。また自分の命を守るため、部屋に閉じこもっていたのです。すると、そこに復活したイエス様が現れ、「平安があなたがたにあるように」と仰いました。弟子たちは、イエス様の身体にある傷跡を見て喜びました。弟子たちは失意と恐れから部屋の中に閉じこもっていましたが、目の前にはいのちを取られても復活して、なお生きておられる方が現れたのです。この時、弟子たちに平和が生まれました。平和とは、真のいのちを握っている状態を表しています。私たちは天国に行ける、永遠のいのちがあるという確信がなければ、この世のいのちにこだわって、自己中心に陥っていきます。逆にイエス様の永遠のいのちを握っている人は、確かな平和を得ることができます。

 

第二に、他者との関係が回復されることです(21~23)。「戸を閉める」とは、完全に閉めると訳すことができます。人間の敵意、裏切り、無関心は、弟子たちの心に強烈な恐れを植え付けたことでしょう。しかしイエス様は、「平安があなたがたにあるように」と仰って、弟子たちを外へ遣わそうとされました。しかも聖霊なる神様が一緒に行って下さいます。人々のところに行けではなく、行こうと励まして下さっているのです。イエス様は最大の味方であり、信じる者に共におられる方です。この安心が、私たちと他者との平和をつくるのです。

 

第三に、神様との関係の回復です(24~29)。トマスは、自分の目で見たものしか信じられませんでした。その彼の前に、「平安があなたがたにあるように」という言葉と共にイエス様が現れます。トマスの考え方は、180度変わりました。

 

イエス様は、平和をつくる者は幸いですと仰いました。私たちは、聖書の平和をどうやって実現すればよいでしょうか。それは、宣教と教会生活を正しく守ることです。私たちはこれらのことが最も必要だと信じて、共に平和をつくる者でありたいと思います。

 

天の父なる神様、茨城県央の諸教会が、こんなに平和な交わりの中にあることをありがとうございます。そして私たちが喜んで、人々を平和に招き入れていくことができるようにして下さい。どうか、今年一年も私たちと共にいて下さい。(201818日新年聖会午後 那珂湊キリスト教会 武田遣嗣牧師)

 

☆ 2018年1月8日、水戸地区8教会(水戸下市、笠間、岩瀬、八郷、石岡、小川、大洗、那珂湊)主催の新年聖会が、石岡キリスト教会で行われました。