聖書には、イエス・キリストは神のひとり子であり、人間となって数々の偉力のあることばによって弟子たちを選び、難病を癒し、自然界を支配し、死者をよみがえらせたこと、また神を無視して罪を犯し続ける人間のためにアガぺ(ギリシャ語)という極みの愛の実践をあえて選び、人間の代わりに受ける身代わりの死、十字架に自らを差し出して下さったことが記されています。
では、聖書の語る人間の持つ罪の実態を探ってみましょう。
(1)十字架上の犯罪人のことば。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ23:39)。
(2)使徒パウロの手紙「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3:18~19)。
(3)使徒パウロ「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝をすることを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者となり、敬虔のかたちをしていてもその実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい(Ⅱテモテ3:1~5)。
一方、私たちクリスチャンの入信経験は様々ですが、共通して言えることは、神の導き(聖書では霊感と言っている)によって筆をとった聖書の著者たちが記された内容を、神のことばと信じているということです。例えば、同志社大学の初代総長、新島襄先生は、旧約聖書創世記1章1節の「初めに神は天と地を創造した」のみことばを信じ、生涯をかけてクリスチャンとしての大業を果たされました。
最後に、私個人のクリスチャン生活67年の中で指針となったみことばを紹介させていただきます。
(1)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)。
(2)祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります(マルコ11:24)。
(3)いつも 喜んでいなさい。絶えず 祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト ・ イエスにあって、神が あなたがたに 望んでおられることです(Ⅰテサロニケ5:16~18)。
新約聖書へブル人への手紙4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とある通り、神のことばは今もなお、私の心の中に生き続けています。(2018年7月16日 依田次雄名誉牧師)
☆今年は早々と猛暑、いささかどころか、非常に参っています。
老人ホームでの生活は速足競争のようとも言えます。いくつかの集まりがあるので時間を守らなければならず、時がとても早く過ぎていくように感じます。
また、皆様の様々な労に感謝しています。そして「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(マルコ16:20)のみことばに期待しています。(7月16日夜)
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