愛に生きる人生

 

 今日は、特に神様の愛について語ります。

 

 神様が示して下さった愛を受け入れ、その愛を他の人に与えていく人生こそ最高であり、一番大切なことです。

 

 聖書には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316)と記されています。

 

 この世には、数限りないことばがありますが、この「愛」ということばくらい慕わしいものはありません。「愛」というと、一般には先ず男女間の恋愛のことを考えます(小説・テレビ・映画など)。でも親子、兄弟、友人などの愛もあります。私は、クリスチャンとして私が経験した、いわば本当の愛を、他の人にも知って頂きたい、その愛に生きてほしいと願っています。その愛は最も純粋で、気高いものです(聖書のことばでは「アガペ」と言います)。

 

 さて、昔スコットランドにジョージ・マセソンという将来を期待された青年がいました。不幸なことに、彼は大学時代に失明してしまいました。婚約者から破約を申し渡され、しばらく悲しみ、失望のどん底の時を過ごしました。しかし心の目が開かれ、神を信じ仰ぐ人となりました。そして、目が見えていた時以上に奮起して、一生を神と人のために奉仕する人生を選びました。彼は妹の結婚式の日、一人で留守番をしていました。何とも言えない淋しい思いを抱きつつ、変わりやすい世の中にあって決して変わらぬ神の愛を思い返していた時に生まれたのが「放たざる愛よ」という讃美歌です。彼は、逆境、孤独、人に誤解され、その人が自分から離れていった時、死の恐怖を抱いて時を過ごしている時、いつまでも変わらずに、自分を見捨てず受け入れ、見つめ続けて下さるのは真の神様であると悟ったのです。

 

 あなたがこの愛を知ろうとせず、神に背を向けていては、本当の幸せをつかめず、却って知らないうちに罪深い人生を歩むことになります。あなたは、神との絶縁関係(罪と言う)をやめ、神の前に自分をさらけ出すことが大切です。そこに救いがあるのです。

 

 イエス・キリストはこうする人を探し、求めるため、この世にお生まになりました。そして、ご自分が人間の立場を代表して神の前に出て下さったのが十字架刑です。あなたの罪、私の罪、すべての人の罪を引き受けて下さったのです。

 

 ローマ人への手紙5章に、それが明示されています。指摘されていることばを拾ってみましょう。

 

1)私たちが弱かったとき

 

人は弱さの故に罪を犯します。自分の欲に勝てず、欲に引かれて罪の道を進んでしまいます。境遇、様々な状況や悪の力に負け易く、意志が弱いため、多くの悪に陥る人が多いのです。問題にぶつかる時、気の弱い者、意志の弱い者はだめです。今日こそ、自分の心の救い、意志の救いを神に求めましょう。力強い人生、純粋な人生を送るため、人生の戦いに打ち勝って、勝利の旗を翻す者として頂きましょう。

 

2)罪人であったとき

 

神との絶縁状態を罪と言い、その状態にある人を罪人と呼びます。人間の犯す罪は一度、二度、三度と次第に犯し易くなります。心理学者はこの状態を、地面の同じ所に水を流し続ける実験によって川ができることで説明しています。これを罪の習慣性と言います。

 

3)敵であったとき

 

「神を信じないが、神の敵と決めつけるなんて、とんでもない」と言われますか。敵にも色々あります。大学に入った息子が、母の仕送りの学費を遊びに使い、ろくに通学せず過ごしていたため、母親が自分の親指を切って息子をいさめたという話を聞いたことがあります。親不孝、いいえ、それこそ親の敵とも言える行いです。また夫婦間で不倫が行われるなら、それぞれ妻の敵、夫の敵ということになります。このように、すべての罪は愛に満ちておられる神様を無視し、逆らってみこころを痛め、悩ますことであり、神の敵となることなのです。法律が定める最も重い罪は、反逆罪です。天地万物の創り主であられる神様は、人間の創り主でもあられるお方として愛を示し続けておられます。

 

 イエス・キリストは正義、神の定めを全うするため、あなたに代わって十字架の刑の場にご自分の身をおいて下さいました。これ以上にきよい、正しい、深い、強い愛が他にあるでしょうか。簡単な方法では人は生まれ変わらないことを、神様はご存知でした。あなたが罪から救われ、正しく、きよく、愛を表す者となるためには、キリストによって、はっきりと示された神の愛の下に飛び込むことが必要です。

 

 最後に、イエス・キリストが宣教のことばとして招きの声をあげられた有名な聖句を記します。

 

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ1118)。

 

 

 

☆ここケアハウスでは、割合元気な人が急に召されることが続き、緊張の時を持たされました。90の坂を登り始めた私ですので、備えの時であることをわきまえねばと思うのですが、時は待つこともなく、どんどん過ぎていきます。記憶力、体力の衰えも著しいこの頃ですが、自分で選んだクラブ活動だけは、しっかりやっていこうと考えています。春の訪れと共に、もっと元気になることを心がけます。(2019.03.03夜 依田次雄名誉牧師)