恵みの御手の豊かさ

 

 小生が信仰に直接導かれたのは1963年、東京に於いてである。しかし1944年に香川県善通寺市で生まれて導かれる19年間に主の恵みの御手が豊かであったことを忘れてはならないので、ここに思いつくままに記したいと思う。

 

 まず、小生の実家はいわゆる水呑み百姓であった。祖父はすでにいなかったが祖母が健在で毎朝お経をあげていた。その時幼児の小生も一緒にお経をあげさせられた。今から振り返ると神を敬い信じることを幼いながら学ばされたと思う。

 

 第二に、実家の目の前は「四国キリスト教学園」現在の四国学院大学であった。そこには南部長老教会の宣教師家族、改革派教会関係の学生、教師たちが学び生活していた。小生は小学校1年の時、学生さんからイエス様の十字架と復活の福音を聞いた。小生にとっての原福音である。小学から高校卒業までの遊び場は「キリ教学園」であった。

 

 第3に、当時女学校に通っていた姉に「徳永さん」と「石丸さん」という友人がいて、我が家でよくその名前を聞いた。それで、まだ幼かった小生はこの二人はどういう人なのかと思っていた。後で「キリ教学園」の学長と教師の娘さんと知った。それでキリスト教信仰に強く関心を抱いた。

 

 第四に、中学3年の夏入院し、高校での野球を断念した。また高校三年の時も入院し受験は希望方面とは逆の文科系に急遽変えるという挫折を味わった。しかし、当時は挫折と思ったが、もしこれがなければ牧師にならなかったと思う。つまり、この二つの挫折には主が頑なな小生を主の導きに導くための恵みの御手そのものだったのである。

 

 第五に、高校の同級生に「岡田」という変った人物がいた。彼は他の同級生には振り回されず、マイペースであった。彼の両親は「キリ教学園」の教師で、彼はクリスチャンであった。小生は彼と親しくし影響を受けた。

 

 小生は1963年、都下武蔵野市に下宿し、お茶の水にある予備校に通った。同時に「いこいの窓」という深夜放送で福音を聞き、教会に通うようになった。その時「お茶の水学生キリスト教会館」で行われたKGKのクリスマスでイエス様を個人的に救い主として信じる信仰に導かれた。しかも、下宿の斜め前に住んでいた少女が現在の妻なのである。主の恵みの御手は実に豊かである。

 

                     2019525